2010/12/28

からだの設計にミスはない 写本(p123〜124)

師走・・・という名にかまけてしまい、日記を書いていませんでした。反省します。
故郷の愛媛では、積雪10センチの雪。我が家のある京都・美山では50センチくらいの積雪はあるでしょう。
今年は、もしかして150センチ以上の積雪になるかもしれません。
それに比べると、東京の眩しいくらいの青空は・・・申し訳ない気がします。
東北地方の方々が上京したがるのもの、致し方ないと、ついつい思ってしまいます。
それでは、写本。
腹式深呼吸の練習法に上体を真直ぐに保つことの必要は前述の通りであるが、息の出し入れの練習は床に入って寝ながらでも出来る。まず下腹を出来るだけ凹ませて体内(息は肺にあるのだが、肺を意識しない方がいい)の息を充分呼きだす。次に力をぬくと独りでに下腹がふくれてくるから、これをそのまま続けて、まず、腹に息を充たすつもりになる。次に上腹から下肺に息を入れる。
更に胸を両側に拡げるつもりで息を吸ってゆく。無理に肩や鎖骨を引き上げるように吸わなくてもよい。充分息が入ったらフッと一息呼く。
その時肩の力をぬくつもりになり、下腹にパッと力が入るようにしておいてから、そのまま出来るだけ静かに下腹から息をぬいて、だんだんに
上の方までぬくようにすればよい。
これを繰り返す。
一歩進んでからの練習は心搏四つで息を吸い、前述のように一息ぬいて十六搏間下腹に力を入れたまま息を最微少に呼き、そして八搏間に腹から息をぬく。心搏数は初めからそのようには出来まいが、だんだんそれに近づけていくようにすればよい。立位又は座位でも同様であるが、姿勢を正して正座してやれば座禅と同じことである。
あまり力みすぎないように静かにやることがコツである。少なくとも七八回やればからだが温かくなり、少し汗ばんでくる。
毎日やることが大切である。数を数えていると、他のことを
考える余裕がないから、精神の放下にもなる。
呼吸のコントロールは健康には是非とも必要なことである。歌をうたったり尺八を吹いたり、お経やお題目をとなえたりすることは皆この呼吸法に相通ずる。のっぺらぼうのとなえないで南無、妙、法、蓮、華、経とやると、ハッハッハと笑った時と同じように下腹に力が入り、うまく出来ているなあと感心させられる。
要は、息の呼き方である。吸う息は深く、呼く息は長く静かに。たしかに身心がくつろいでくる。生体と運動と呼吸と精神の相関の原則には間違いない。各位の体験を希望します。


今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/12/16

からだの設計にミスはない 写本(p121〜122)

早速、写本をいたします。

運動系の能率の項で重心の在り方をのべたことがあるが、呼吸も一つのうんどうであるから他のからだの運動と同一の
理屈がとおるのであり、からだの中心に重心をおくように呼吸をするのが理想であることになる。そのためにはまず重心を中心に安定する姿勢が問題になってくる。各種の体位ごとにそのコツがある。人は活動する時は立位をとることが大部分であるから、まず腰を安定させなければならない。左右の足に平等に体重をかけ、仙骨を第五腰椎の所で正しい前弯をとり、脊柱を正ししてその上に頭部が正しく乗るように姿勢をたださなければ充分なよい呼吸はできない。この正しい姿勢をとることをまず心がけて呼吸の訓練をしなければならない。姿勢が正しくなければ武芸共に充分な域に達することは出来ない。座禅でもこの姿勢がやかましくいわれるのは当然であって、これが可能になって呼吸も思うように出来ることとなる。
腰を反らすのでも腰椎全体が反ってはいけない。一番下の所で反るようにすべきである。大半の人は反るより屈している人が多い。座位の時は特にこれが顕著である。こうなると顎が前に出てきて脊柱は正しい素直さが失われてくる。悪い姿勢は骨格の歪みであるから、この構造の中に固定保護されている内臓や中枢神経が正位を失ってきて、その機能が阻害されてくることになり、自然な生活機能即ち健康が保ちにくくなるのは当然のことである。
腰が後彎している人が練習する時、座位では座布団を一枚尻の下にしいて補助してやるとやりやすい。
<医学用語の前彎・後彎を、操体では後彎曲・前彎曲という言葉に置き換えて使用しています。つまり、前彎=後彎曲、後彎=前彎曲として使用していますが、この橋本先生の文章を読むかぎり、前彎=前彎曲、後彎=後彎曲ととらえたほうが良いように思えます。これは、もう一度考え直してもよい課題のようにも思えます。>
今日はこれまで、 ではごきげんよう!

2010/12/14

からだの設計にミスはない 写本(p120〜121)

師走ともなると、回りは忙しいようですが、マイペースでやっていきたいと思います。では、写本。

交感神経が興奮すればハッスルしてくる。血中のアドレナリンが増して血圧は上昇し、体表面の毛細血管は収縮し、皮膚は蒼白となり、はげしければ鳥肌となり、髪の毛は逆立ち、目はつり上がってくる。まさに闘争準備態勢に入る。武者震いさえ起きる。
しかし、気分はイライラしてくる。落ち着きがなくなってくる。けれども、その反対に副交感神経の方の興奮がそれより強ければ、自律神経は互いに拮抗作用が行われるのであるから、気分を落ち着けさせることが出来る。
困難が目前に迫れば誰でも交感神経は興奮して対応準備が出来るよう自然は仕組んであるのだけれども、過ぎたるは及ばざるが如しで、度をこすと身心が固くなって臨機応変が出来ないようになる。困難に際し、又は怒りがこみ上げてきた時、唖々大笑出来る人は達人だといわれているが、この時のメカニズムを考えてみると、ハッハッハと大声に笑えば呼吸はどうなるか。下腹にパッパッパと力が入り腹圧がたかまる。
交感神経の過剰興奮は抑制されることになる。
心が落ち着けば物事を正当に判断出来るから、急速な変化にもそれに応じて対処出来るわけであり、そのような人は達人ということになる。
何もおかしくて笑わなくても、このように呼吸をすることが合目的なわけである。宮本武蔵は試合をするときはいつも対手を待たせてイライラさせて交感神経を興奮させる手段をとった。このように呼吸の仕方によって身心の変化するわけを知ったなら呼吸法を研究する気になるであろう。
事実これは大影響がある。運動する時になるべく吸気は
速く必要なだけ吸い込んでゆっくり呼けばその間に能率をあげることが出来る。
胸元でセカセカする呼吸は頂けないやり方であり、ゆっくり下腹に力を入れて手や肩や首の力をぬいた呼気は安定性を保ち、身心に好影響を及ぼす。しかし、これは一朝にして出来るものではないから習練を要するのであり、これが調息法の訓練なのであり、心がければ常時訓練を積むことが出来る。
長生きする人は長息出来る人である。
<来年の4月に東京操体フォーラム分科会が開催されますが、この時の私のテーマが、息であります。これは、非常に奥が深いものですので、からだを通し、しかも勉強を積み上げた上で仕上げたいと思っています。>
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/12/13

からだの設計にミスはない 写本(p118〜112)

昨日は、操体の勉強会が終わり、友人と飲んでしまいました。
楽しいお酒で、ついうっかり日記を書くこと忘れてしまいました。
というところで、早速、小指に関しての写本に入ります。

ある相撲の話に、下駄や草履をはいて育たない二世は、相撲には駄目だとのことであった。
からだの重心の高い西洋人は、腰をおとすことの得意な日本人よりは倒され易い。
全体の重心の在り方が問題となる。
私は骨格を基盤とする人身の力学的な診療と治療とを提唱しているものであるが、からだの重心の在り方と全体の運動能率との関連性をどなたかに開拓して頂きたい。
スポーツ界にも医療界にも、エポックを期待出来ると、私は思うのです。

調息法
前にちょっと呼吸に触れた。運動中の呼吸の要領に関してであった。呼吸によって生体に必須の酸素の栄養を摂取するのであるから、好ましき環境の清浄な空気を深呼吸することは最高の価値であることはわかっているが、呼吸の仕方に
よって生体に及ぼす影響というものが左右されることを知る必要がある。調息法が古来研究されたのはそのためである。
腹圧を高める腹式呼吸をすると副交感神経が刺激されるようである。
胸式でやると交感神経が興奮してくる。迷走神経(副交感神経)を刺激すると心搏が緩徐になってくることは誰でも知っている。深呼吸しながら心搏を測れば、吸気の時よりも呼気の時の方がおそくなる。呼く時はどうしても腹の方に多くの力が入る。これを最大限に利用して腹圧をたかめるように深呼吸すればよいことになる。
<現在、呼吸法は臨床においても、日常においても大切な営みとして、様々な方法を試みています。我が師・三浦寛先生の新刊・皮膚からのメッセージ(たにぐち書店)に丹田の気を養う方法として、様々な呼吸法を紹介しています。この新刊本は、これからの新たな治療法、生き方を提言しています。
私のお薦めの本です。>
きょうはここまで、では ごきげんよう!

2010/12/10

からだの設計にミスはない 写本(p117〜118)

早速、写本に入りましょう。

書道のことが書いてあった。子供の頃、字を書く時は、肘を張って、腕に力を入れて書くのだと教えられたこともあったが、どうも腑に落ちないでいた。
ある時、当時の満州国皇帝が字を書いている写真を見たことがある。そして私は唸った。椅子に端座して、筆と示指を正中線に立てて、小指と示指の尖端を、筆管を底辺とする三角形の両辺の如く伸ばして、拇指と他の指はその中間を支えている姿であった。そして、その書は、私には頗る美事に観ぜられたのである。
上肢はかくの如く、小指に重点を指向すれば、上肢全体は、からだの正中に近く集約される。手先も全体に統一せられて、その動作は全身一致の妙を発揮する。
しかし、下肢に於いてはその反対である。
足裏にかかる全身の重力は、平均であるが、動作時の重点は外側にあってはいけない。足の外側に重心が偏れば膝が開いて倒れやすくなる。足幅よりも膝幅を開いた相撲の仕切りなどおかしい。そのためには拇趾に力が入る必要がある。動作の秘訣は、手は小指に、足は拇趾に力が入る必要がある。動作の秘訣は、手は小指に、足では拇趾に力を入れるようにすることである。

<前々回の東京操体フォーラムで、南画の大家・田中稲翠先生が、講演をされました。その時、書を書いていてくださいました。その筆の持ち方が、満州国皇帝のものと同じです。
やはり、あの持ち方からからだ全体が流れるような動きになっていました。美事な動きでした。
また、仕切りに関してですが、あれは、腰を落とし、相手の圧力を受け取る為の所作でもあると思います。ですから、私はあの仕切りは正しいと思います。>
きょうは、ここまで、では ごきげんよう!

2010/12/09

からだの設計にミスはない 写本(p116〜117)

それでは早速、写本に入ります。
小指
武道、諸芸、スポーツ、皆小指の効用を再確認されているのが愉快である。馬術でも手綱の捌きは、小指に重点がおかれねばならぬし、剣道でも束の握りは支点が小指にあり、雑巾を絞るようにという。肘を外方に張ってはいけない。走っている車や馬から落ちた場合、怪我せぬ秘訣は、小指にギュッと力を入れて、身を丸くするにあるという。

何故、小指に力を集約することが必要なのか?
小指に力点をおけば、肘がからだの正中に近づくからである。体の崩れとは、重心が中心から、限度を超えて末梢に偏ることである。あらゆる動作は、この中心に近く支点即重心を安定してなされたものが、高能率で疲れが少ない。疲れは、偏在した重力が復元し難くなっている時と所に起こるのである。
崩れぬ体中心に統一されたからだは美しい。又その動作も優美である。フォームの美しさと能率とは一致する。能率の伴わぬ形の美は偽の美である。華道の達人を剣道の達人が斬れないという話をきいたことがあるが、達人ともなれば、からだが安定して、静のうちに動のポテンシャルエナジーが充満しているから、一方の達人からは隙が発見出来なかったのであろう。

<私の師匠・三浦寛先生が、ふらりと街を歩いていると、「何の師範をされておられますか?」と聞かれることがあります。
達人からみれば、我が師匠が達人であることが、直ぐにわかるようです。その点、わたしなんぞ・・話にもなりません。
ただ、脱力し、余分な力を入れず、回りの気配を感じながら歩くことは心がけています。>
今日は、ここまで、では どきげんよう!

2010/12/08

からだの設計にミスはない 写本(p114〜116)

おはようございます、この写本やっと半分終わった程度です。なんとか、春までには終わらせたいものです。
さてそれでは、早速始めます。

垂直に体位を変換させても、針は又振れますが、重力が骨盤に安定している度合によって、人の能力は、肉体的にも、精神的にも違います。ゴニオメーターで起立安定度を各方向から測ると、個人的には、ある一定方向に、弱点が現れ、集団的には、頻度の大小によって、身心の能率比が現れます。
左右重心の偏りは、計器を用いずとも、正面に起立して、閉目させ、二三十回、足踏みをさせれば、重心の傾く方向に回旋してきます。吹雪の廣野に軍隊が円を書いて行進する話など聞きますが、さもあるべきことと思うのです。健康法として、この重心の安定を保つよう、全身を平均統一的に運動する方法も考えられています。末梢の運動も、必ず、中心に集約されるようにやらぬと、疲れが早く、ひどければからだをこわします。からだをこわすということは、病気をおこすということで、私は病気の原因の一つは、骨格の平衡を失った変位から来るものと思っています。

東洋の医療は、体表に現れた諸変化から、刺激点を決定して、実は骨格の変位を整復することによって、内臓の病気をも
治しているように見えるのです。三十年近く、私はこの考えで、患者に接すれば、まず骨格を観察して、それを平衡状態に整復するようつとめています。それによって即座に、気分(即ち主訴)のよくなる例は、たくさんあります。気分も骨格も変位から来るものなのでしょうか。現代医学は精緻をきわめておりますが、大まかなこと、全体的に一つとしてみることを、もう一度みなおしてみる必要もあると思うのです。
体重心の安定と、骨格の変位、骨格の力学的関連性など、その一つだと思います。如何なものでしょう。
<この章は、操体法の本質を述べておられます。未だにこの歪みを現代医学は問題にしていません。森に入り、木や蛇ばっかりみています。森を全然見ていない。
これでは、迷子になってしまいます。結果、多くの病気は原因不明!!
当たり前です、病気になってしまってからでないと、治療が出来ないのですから。
治療といっても、切ったり貼ったり。後は、クスリで鎮圧。
これは、東洋医学でいうところの、下工のする術。上工は病気になる前、つまり未病を診なければなりません。
その指針が、からだの歪みなのです。ところが、東洋医学でも、からだの歪みを病因の一つだといっていません(私の知るかぎりでは)。
今一度、この歪み・・・からだ以外も、心、生活、動き全て含みます・・・を考えなおす必要があります。>
では また 明日、ごきげんよう!

2010/12/07

からだの設計にミスはない 写本(p114)

それでは、早速写本にうつります。

右手が動くようになる動機に、右利き眼が一つのファクターになるのではないかと思っています。右眼が利く時、顔の
向きが変わってきます(多人数の写真を出して観察してごらんなさい。面白いことが発見出来ます)。さて、物に対して、行動を起こす時の体の向きは、利き眼に左右され、体重心を決定的にし、そのため利き手を生じるのではないでしょうか。
体の重心が中心に近く、平衡状態に安定している時は、動作は一番能率的なのですが、重心が中心からずれるほど、能率は減り、体は崩れます。

武道、スポーツをやった人なら、合点がいきましょう。利き足の左右がありますが、足裏に左右同じように、重心のかかっている人は稀です。体重計を二つ並べて、その中央に片足ずつのせて、立たせて針をごらんになれば、一目瞭然です。六十キロの人が左右三十キロずつかかっている人は少ない。右重心が断然おおいはずです。

<実は、右利きの人は、左重心なのです。橋本先生は、この当時、まだ試行錯誤されておられた時期だと思います。
そのため、仮説として、右利きは右重心だとされたのだと思います。
ところが、右利きの人は、左重心で軸がやや左にずれています。
また、個人的には、私は、右利きにもかかわらず、左眼利きです。そのため、左に重心が移ると非常に安定します。
卑近な例ですと、四股を踏む場合、左足底に重心を移し、右足を上げるのと、その逆とでは、安定感が全然ちがいます。

横綱の土俵入りでも、まずは、左足底に重心を移し、右足を上げ、続いて右足底に重心を移し、左足を上げ、再び左足底に重心を移し、右足を上げ、合計3回の四股を踏みます。
これは、右利きを前提として恒例化したのでしょう。
ですから、左利きの朝青龍は最初はやりづらかったことでしょう。>
今日は、ここまで、ではごきげんよう!

2010/12/06

からだの設計にミスはない 写本(p112〜113)

いやはや、もうすっかり日記を書くことを、怠ってしまいました。
昨日、日記が進んでいないことを、ある方に指摘され、再び奮起した次第です。

テストと東京操体フォーラムのブログ担当が、重なりこの日記に集中できませんでした。今後そのような場合、必ず何か理由を添えるようにいたします。

それでは、写本。
左利き
左利きの人は手ばかりでなく、眼もまた、左利きに出来ている、といわれますが、そういう傾向は多分にあるようです。私が昔(昭和の初め)函館市の中島小学校で、三、四百人の生徒について、いろいろ調査した記憶によると、左眼利きは約二割ぐらいで、右利きが大部分で八割ぐらい、両目利きは百あるいは二百人中一、二人というところでした。そして左眼利きは左手利きのものに多かったように記憶しています。

利き眼の試験法はハガキ大のカード中央に縦一センチ横二センチの穴をあけ、両手を水平に伸ばして、カードをもち、被験者の両目で穴から、二メートルくらい離れた検者の両眼が見えるようにさせるのです。すると本人は、両眼で見ているつもりでも、実は一眼でしかみていないことが、検者からはっきりわかります。利き眼の文献は、たしか千葉医大の古い報告書(明治年間?)があり、著者のお名前は、忘れましたが、非常に面白い記録があったようです。左右の利きは、実に眼や手ばかりでなく、耳も鼻も足にも、皆あるのです。それが、どうして起きてくるかということは、いろいろ言われていますが、確定的のものはないのでしょうか。私は、骨格と体重心の関係が、何かあるのではないか、と前から密かに考えていました。

今日は、このくらいにして、明日から少しずつ走り始めます。
それでは、ごきげんよう!

2010/11/18

からだの設計にミスはない 写本(p111〜112)

さあ〜早速、写本。

ついでだから、尾籠(びろう)なことを申し上げるが、病院外来で、一番の困りものは、婦人御手洗いでしょう。
殿方は手放しでご用達もなさるまいが、悲しいかな、ご婦人はそうはいかない。よほど、たしなみのよい方でなければ、御腰のむきを調整してからの行動をおとりにならない。その結果が、あの始末というわけである。
ご婦人だけをくさすわけではない。殿方は、ちょっと便利に出来ているだけのことである。どうも、話は終末に来たようだ。
しかし、このような癖も、矯正が全然不可能はないことを私は申し上げたい。それは、骨格は、案外たやすく矯正が出来るものであるからである。

シュミットにも、訪ねて来てくれるなら親しくテクニックのデモンストラシオンをやりましょうと言ってやったのだが。
前にも度々書いたことがあるが、骨格は関節においてズレるのであるから、関節の運動を分析して吟味するのである。そして、最も困難な方向から、最も快適な方向に自力を誘導して、丁度よい位置まで来た時に、外部から軽い抵抗を与えておいた、瞬間的に脱力させるのです。
この原則によって、関節は整復される。これを、全身的に、総合処方することによって、かなりの程度に効果をあげることができる。
患者は正直なもので、骨格が幾分でも自然体に近づければ、即刻に愁訴が軽減する。器質変化の病理学に立ち、生科学的医療にのみ専念している現代では、ノイローゼという名を与え、ずいぶん厄介な愁訴に悩まされている臨床家は多いはずである。
現代医学の盲点を突いて、骨格と生活機能との関連を物理的に、力学的に、科学化する人、特に研究機関を有せられる学者が、現れてくだされてもよい時期だと思う。計測的データを伴わない非科学論のそしりは甘受しますが、このアイデアをつかんでから三十年、私は自分の臨床に、実践応用して、非常なる利便を得ておる。
少なくとも、ウソかホントか試して、科学的に可否を判定して頂きたい。

今日は、ばっちりと、写本のみ!では ごきげんよう!

2010/11/17

からだの設計にミスはない 写本(p110〜111)

来る20日(土)21日(日)、東京操体フォーラムが津田ホールで開催されます。
私は、受付係の仕事と、発表者の名前を墨で書く仕事を任されています。
今日、3時間程かけてやっとある程度納得のいく書ができました。発表する人のイメージを頭に描き、書にしていくのですが、やっぱり楽しいものです。

昨日は、大学のクラスメートの青柳芳夫さんが所属するグループ展があり、そのオープニング・パーテイーに出かけ、二次会にも参加、すっかり酔っぱらってしまいました。そのため、日記は書けませんでした。
申し訳ございません。

それでは、写本。

右重心の人は、右を振り向きにくいのです。
左右半側を別々に動かす時、腰の重心を意識して、交互に移管しながら試みて下さい。なるほどと、合点がゆくはずである。
「左利き右利き」の問題も少なくも、ここまでは、掘り下げてみなければならないと思う。骨格は人生をも左右する。
骨相学(?)上、女性の幸運は、上開の人にあるという。月見は上品、潮干狩りは下品と相場がきまっておる。
昔の人は、随分うがった観察をしているものだ。女性の外性器の付き方で運命判断をしている。これは、骨盤の前後の歪みである。恥骨が下がれば、内蔵も下垂する。勿論、上開ではあり得ない。胃下垂の婦人を診察されたら、どう思われますか。これが自分のフラウでなくてよかった、と思わぬ御仁はありますまい。

<右利きの人は、左重心。現在では、そのことを考慮し、右利きの人は自然体で立つ場合、左足を半歩前に出し、やや内側気味にしたのち、骨盤を正面に向くようポジションを取るようにしています。>
今日は、ここまで!では ごきげんよう。

2010/11/15

からだの設計にミスはない 写本(p108〜110)

冷たい雨が降ってます。
ただこの冷たい雨、京都の冷えに比べれば、どってことないです。
先日、東京にいるつもりで、午前7時頃、夜行バスの終着駅・京都で乗車口を降りた瞬間、冷気がアキレス筋を伝って膝ウラまで上ってきました。
東京の世田谷でいつもこの時間帯は外を歩いています。
だから、比較できるのですが、東京って住みやすいってよ〜〜く分かります。
では 写本。

両上肢を捻じ曲げたり、食事中、茶碗を放り出したりする、舞踏病様運動をする小児の骨格を矯正してやったら、それが
止んだことがあった。

人と対談中、よく膝の上で、手首をまげたり、まわしたり、火鉢の縁をさすったりする人がある。対談中は、あまりやらなくても、時々首をクルクルまわして、ポキポキと首の骨の音を立てたりする人がある。
その人の無意識の感覚が、ある場においてそれを要求するのである。一方においてある制限を加えられている時など、こと更にそのようなことが現れる。
冷静を顔に装うっても、眼や手足がいうことをきかずに動き出すのだ。
ある年ドイツから東洋医学の研究に来たハルベルト・シュミットに贈った一文“The relation between the skeletal structure and life function”の中に、私は、骨格の異常は第一に感覚に変調を来し、次に機能から器質に及ぶと言った。
又、異常骨格を矯正することによって、同じ順序で感覚機能ついには器質の異常、即ち疾病までも正常に復元する。
これが東洋医学の行き方だとも言った。感覚は調整を希望する。異常骨格を復元したいのである。そこで行動が起きる。
窮屈な姿勢から逃避したいのである。
感情と骨格、更に性格と骨格には相関性がある。同様に疾病と骨格にも相関性がある。
ともあれ、ある目的を有する動作は、第一に能率を要求する。
そこで、その人にとって最も能率的な行動を助長するために、癖なる行動が出てくることがある。首をかしげて物を考える、腕を組む、面相を変化する。いろいろあるが、その癖はその人に特有ではあるが、一般にはある傾向をもっている。読者はズボンをはき、靴下をはく時、又は靴をはく時、どちらの脚から始められるか。
気がつかずにやっている日常の動作は、反省してみると、たいてい一方にきまっている。階段の昇降に同側だけしか使えない人は、よほど不正がひどいのであるが、からだの右も左も、融通無碍に使える人などめったにない。後ろから呼び止められて、無意識に振り向く側は、その人に一定しておる。
骨格はイージーゴーイングを建前としている。ある時、藤森速水教授は「右側通行の困難性」について書いておられたが、これも骨格の歪みを考えないと解釈がつかない。

今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/11/12

からだの設計にミスはない 写本(p106〜108)

いや〜〜やっと試験は終了致しました。
多分、赤点は無いと思います!!
ただ、凡ミスは相変わらずあるので、予想より点数が上回ることはないでしょう。
一年の時に比べれば、徐々に勉強法を作り上げつつありますが、思いっきり試行錯誤しています。
時間の有効利用という、人生で最も大切なことの一つを学んでいると感じています。
本当にありがたいことです。
解剖学、生理学、経穴それに病理学が、徐々に融合し、関連し始め、学ぶことの面白さを少し感じ始めました。
それにしても、多くの病気は原因不明・・・・からだの歪みを診ようとしない学問にはうんざりします。
今後は、歪みに関しての疫学が必要になるのではないか・・・と真剣に思います。
それでは、久しぶりに写本。

無くて七癖、人誰しも癖のない人はあるまい。よい癖、悪い癖様々、癖は表現の一形態であり、言動に現れる。言は精神的表現、動は動作による肉体表現。

酒に酔えば、精神的制約がゆるんで、陽気になるもの、エロ的になるもの、からんでくるもの、暴れるもの、泣くもの、様々である。
しかし、これが、仮面をはずしたその人の性格の一大部分であろう。氷山の一角は意識上のこと、潜在の大部分は意識下のものである。私たちの行動に現れた癖も、この意識下のことであり、今まで科学化されていない。
覚醒時においても、寝相と同様、無意識のうちに表現されるのが癖であり、癖をみて、その人を評価するのは、あながち、当たらずとは言い得ないものがある。
看護婦を養成する時、よく物に依りかかる子はのびない。ご経験済みのことと思う。
友達の肩に手をかけたり、もたれかかる癖のある子は、依頼心がつよく、独立独行的性格ではない。
私は柔道はやらないが、友人の三段お男が言ったことを思い出す。
講道館の鏡開きの時、さいしゅうの試合に、館長嘉納治五郎先生がスッと立ってススッと道場の真ん中に歩みをすすめて、審判にあたられた。
なんと、それまで八時間、先生は端然として正座しておられたのだそうだ。三十分や一時間足らずの読教の間にも、モジモジしていざ焼香に立てば、つんのめる御仁も少なくないのに、全く先生にはたまげたとのことであった。
前述の癖と嘉納先生の行動とに、かくされた関連を求めれば、骨組みだと私は思う。
前者の骨格に歪みがあり、安全を保つには、自己以外の支えを要求しておるのであり、後者は、自然体に近く、長座しても、圧迫、牽引、捻転などの異常感覚を覚えぬまでの、いわゆる正常骨格の保持者なのである。

今日は、ここまで、では ごきげんよう!
明日から、京都に出張。11月15日から再開します。

2010/10/28

すこし、お休み。

昨日は、日記を書くことが出来ませんでした。
これは、間近に控えている期末テストの準備でアタフタしているためです。
2年の2学期が全ての教科で、最も大切な時期。テストの範囲も広く・・・
ということで、これから11月12日までは、日記をお休みいたします。
申し訳ございません。

しばらく、勉強に励みたいと思います。
さあ!これから、がんばります!    佐伯

2010/10/26

からだの設計にミスはない 写本(p104〜106)

早速、写本を始めましょう。
寝相
骨格、体勢の観察をもっと深めていくなら、疾病との関連をもっと突きとめられると思う。しかし、今のところ、誰もこんなことを突っ込んでやってみてくれない。私はそれが残念で、こんな寝言みたいに思われることを書き散らすのである。

頭痛持ちの人は、多くの場合、左の頸すじが凝っていて、頭蓋骨下縁後部正中と乳様突起の中間に著しい圧痛点があり、
肋背部の後腋窩線に沿う圧痛帯と、左大腿部の上外後側に圧痛線が著明にあらわれている。
左恥骨部も圧痛著明である。かかる患者に出遭う時、仰臥させて、両膝を屈し左下腿をつかんで、股関節で屈曲するように持ち上げてやり、静かに左足をお尻の直前に下ろすようにさせる。
まさに足が床につかんとする頃、少しく抵抗を加えてやり、患者自身に急に力を脱却させると、今までの一連の痛みは即時にとれて、頭も軽くなり、頭痛もなくなるのが普通である。
特定な骨盤のズレが整復されるからである。技術にコツと上手下手はあっても、原理さえのみこめば誰にでも至極簡単にやれる施術で患者には大変喜ばれる。
骨格は一連の連動装置だからそうなのである。こんな人は、よく胃下垂になっている。それも、この方法で大いに軽快するのがたくさんある。
骨格変位が、診断名のつく以前の前疾病状態をあらわしており、患者の主訴があっても、医師がそれをもてあまして、ノイローゼとかヒスとかで、かたづけても、患者は決して満足しない。
療術師問題が又やかましくなってきたが、医師たるもの、もっと骨格の変位と、その調節整復に着目、修熟する必要があると思う。
癌でさえ、前癌状態という期間があるといわれているではないか、手術にもってゆくようになる前に、もう一度骨格との関連を探求すべきである。
寝相といっても一概に馬鹿に出来ないし、もっと素直に、自然の秘密と、そのよって来る理由を聞く耳と眼をもちたいと思う。

<皮膚に問いかける渦状波を施術していると、無意識の動きが出現することがありあます。
これは、からだが勝手に治しをつけてくるのです。
私もこの無意識の動きをよく体験しますが、このことに関して「皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙#2 三浦寛著
 たにぐち書店」に詳しく書いています。興味のある方は、ご購読することをお勧めいたします。>
きょうは、ここまで では ごきげんよう!

2010/10/25

からだの設計にミスはない 写本なし

今日は、フィットネスクラブで走りまくり(と言っても3,7キロ)かなり、疲れた上に、ビール。
なにやら、写本とは行けない状況となりました。
ただ言えることは、汗をかきからだの毒を皮膚から流し出すことは、最も大切な健康法だということです。

別段、クリームなどつけていないのですが、肌がピカピカしてきます。
患者様を診させて戴く立場の我々は、まず、自分の健康を最優先し、自らの放つ気で患者様を治す意気込みが必要です。

明日は、写本をします。
では ごきげんよう!

2010/10/24

からだの設計にミスはない 写本(p103〜104)

久しぶりに睡眠をたっぷり。
今日からの写本は、「第三章 毎日を快適に過ごすために」。
操体は、身体運動の法則を説いているため、普段の生活に浸透した動きの実践をお教えできます。
この章は、具体的な事例を紹介しながらの説明になります。
それでは、写本。

寝相
これから暑くなると、子供が床からころがり出して寝冷えすることがある。寝冷えは勿論いけないが、この寝相ということが問題なのである。夜間、眠っている人の体姿勢を連続観察しておると、種々な臥位をとるものだという記事を見たことがある。
当然なことである。石地蔵さんをころがしたように身動きもせずに眠りつづける人なんかそんなにザラにあるはずはない。
人間は、日中種々な姿勢で動作する。そして、ある部分の疲労を蓄積するのである。疲労というのは、ある一定の組織に老廃体液がちょう溜して異常(+あるいは−)な緊張感覚がおこるものと思うのであるが、骨格の各関節がフルに円滑に
運動しているなら老廃体液のちょう溜はそんなにひどく起こらないであろう。
なぜなら、筋系統は関節運動のため、過剰な緊張を被らないからである。しかし、残念ながら、人間そんなに完全に各関節が潤滑液で動く機械のようなのはない。しかし、機械だって油もやらず、調節整備もやらなければ、人間同様疲れるだろう。
故障が起きて、最後にはこわれる。人間だってそうである。
骨格が許された限度をこえて酷使されると、変位を起こすのである。屈位で長いこと仕事をしたら、背を伸ばし両手を挙げて欠伸をするではないか。
これで骨格の調整をしているのである。田畑を耕す農夫でなくても、土掘りでもしたら、腰を伸ばしてたたきたくなる。
寝相も、それなんですね。体重力を利用して、骨格の凸凹を調節するのです。
それも無意識で潜在意識が自然療能をやってくれているのである。
よく心臓の弱い児が、うつ伏せに寝るといった、ひっくり返してやる親御さんがあるが、これは断然よくない。
ああして寝なくては翌朝までにからだの調子をよくして機嫌よく目を覚ますことがで出来ないのである。血圧の高い人は高枕が好きで、低い人は低い枕が好きだといわれるが、それも皆骨格の関係によるのである。
血圧が高くて骨格がそうなっているのではなくて、そのような骨格の人が高血圧になりやすいのであろう。

<この文章を読み、なるほど!と相づちをうちながら、感心した次第です。
未だに、高血圧の原因は、現代医学的には定かではありません。これを、本態性高血圧といいます。それに対して、何らかの臓器に異常があって二次的に高血圧となるのが、二次性高血圧といいます。
二次性高血圧は、その原因によって、腎性、内分泌性、神経性、心臓血管性に分けられます。
これで、お分かりだと思いますが、視点が常に、臓器であり、細胞、病原菌・・・・なのです。
つまり、からだの歪みなど全く関係なく病名が付いていくシステムが厳然とあるのです。
そのシステムに従うと、原因不明の本態性高血圧になってしますのです。
そして、対処法はおそらく、降圧剤。

それではなく、高血圧の人は、血管が狭ばる程筋骨格が緊張しており、仰臥位になったとき、自然と首が突っ立つから、高枕が好きになっていく、と説明してもらうと納得しますよね!
低血圧の人は、基本的に血液の量が少ないのだから、夜頭を高くして寝ると、頭に血が回らなくなるし、女性のように軟らかい体型をしていると、枕など必要ないと当たり前に感じますよね!
とにかく、歪みが何を訴えているのかを見抜くのが、我々操体を仕事とする者の使命です。>
今日はここまで、 では ごきげんよう!

2010/10/23

からだの設計にミスはない 写本(p99〜100)

すがすがしい土曜日。久しぶりにゆっくりした時間を過ごしています。今日で写本も100/260。まだまだ時間がかかるようですが・・・・まあ〜寄り道をしながら、ゆっくりと歩み続けます。
では、写本。
からだの歪みをみついける運動
正座コマ運動
① カカトをお尻の座骨がのるようにして座る。(両膝はくっつけ、両手は軽くカカトを握る)
② 全身の力を抜き、手がカカトから離れない範囲でユックリと全身を回す。
ほとんど全身の関節が動くので、歪みのありかがわかる。
からだのどこかにヒッカカリはないか、不快感はないかを探り、気持ち良く回れる方をみつける。

<これをやってみて、足の小指が痛くて、全くスムーズに動けないのに驚きました。経脈でいえば、膀胱経。ということは、腎経にも関係あるのかも・・・>

四つんばい試験運動
① 両手両足を床につけ膝を折りまげて、らくに動ける姿勢をとり、肩やお尻を左右前後に動かしてみる。
気持ちよく動ける方を見つけて2〜3回よけいに動かしてみる。

<両手両足を床につけ膝を折りまげて、らくに動ける姿勢をとろうとすると、私の場合は、両膝を床につけた場合が、一番自然です。
師匠の三浦先生が「疾患別治療大百科 シリーズ6 
153ページで四つんばいによる操法を紹介されていますが、この場合の四つんばいは、両膝を床につけています。
ですから、これでも大丈夫だと思います。>

中腰尻ふり運動
①ちょうど自分の頭ぐらいの棚などに手をそえ、膝を軽く曲げてお尻を左右にゆっくりふる。
不快感や引っかかりを感じた方へは動かさないで、やりやすい方(快適感覚)を、2〜3回多く動かしてみると、不快な方のらくになってくる。
キザ位でもよい。
但し、膝うらが台に密着し安定するように深く腰かけ、上体を左右に倒して、からだの歪みを探る。
<この場合、目線をゆっくり腰に通すと、よりスムーズな動きが表現できます。>
今日はここまで、明日からは「第三章 毎日を快適に過ごすために」の写本となります。では ごきげんよう!

2010/10/22

からだの設計にミスはない 写本(p98)

今日も、すっきりしない天気でしたが、クラスメートの大沢さんに言わせれば、「今日も、いい天気!」だそうです。

なにも、晴天だけがいい天気ではないですよね。様々な環境を与えて下さっているお天気に、常々いい天気とありがたく感謝するのが、一番です。

今日は、その大沢さんの勧めもあり、有楽町線・護国寺駅の2番出口をでると、直ぐにある天風会館に行ってきました。
中村天風さんという、偉大な哲人の生涯を知りたく、まずとりあえずは、「天風入門」を購入。
しっかりと読んでいます。
いずれその話は出てくるだろうと思います。
では 写本。

操体療法の基本形
操体H
患者は正座位かキザ位で、術者は患者の背後に位置する。
術者は患者の肩をおさえて左右に捻ってやり、その左右の感覚差を聞く。
→仮に右に捻って違和感を感じた場合は、
違和感を感じた点(角度・所)で捻るのをやめ、そこから反対側の左へ捻らせ、術者はそれに軽い抵抗を与えてやる。
患者の顔が左へ向いて3〜5秒後に瞬間脱力。(2〜3回反復)
→両腕を首の後で組ませてもよい。

<これも、いとも簡単に説明されていますが、実に奥が深いのです。
術者が患者の背後に位置する場合の、立ち方が重要です。
右利きの術者なら、左足を半歩前に出し、膝を緩めた自然体。患者の動きに合わせ、膝をうまく使い背中の介助をおこないます。
患者の動きより、1,5秒遅れて無理のない介助をしなければ、全く操法になりません。
簡単そうですが、この感覚をつかむのは、時間と年期が掛かるのです。
また、両腕を首の後で組ませてもよいとありますが、これは様々なバリエーションが考えられます。つまり、首の後ろ以外の右アゴでも左アゴでもいいのです。
バリエーションが増えた中で、快の聞きわけがあれば治療の域が広がるわけです。
たったこれだけの説明で、様々な操法を発想でき、あらためて原点に帰ることの大切さを感じています。>
今日は、ここまで。では ごきげんよう!

2010/10/21

からだの設計にミスはない 写本(p97)

操体療法の基本形
操体G
患者は正座位かキザ位で、術者は患者の背部に位置する。
術者は患者の両肩に手をかけ、左右の肩を交互に押し下げて、どちらがらくか、又は不快感があるかを聞く。
仮に、左肩を押し上げた時に不快感があった場合は、
患者は、ゆっくりと力まずに左肩を上げていき、術者はその動きに軽い抵抗を与えてやる。
左肩上げが最好点に達した3〜5秒後に瞬間脱力する。
(2〜3回反復)
回毎に肩上げ範囲が高くなり、肩こり、重圧感は消失する。

<かあさん、お肩をたたきましょ、タントンタントンタントントン・・・日本人が日本人としての生活をしているときの、姿勢は、正座位だと私は考えます。
この姿勢をした上で、肩たたきという、当たり前の会話がなされていたのです。
お灸の当たり前の姿勢は、やはり、正座。
今一度、この正座からの操法を考え直さなければならないと思います。>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/10/20

からだの設計にミスはない 写本(P96~97)

もうすっかり秋になり、厳しかった夏の疲れが一気に出て、体調を崩す方もおられます。
やはり、からだが一番!からだの声に耳を傾ける時間を少しでも多く取りましょう。
では、写本。
操体療法の基本形
操体F
①術者は患者の頸部に中指を当て、胸鎖乳突筋の後方を探ってみる。
→頸椎の形態異常や、硬結・圧痛があり、首の真ん中あたり(棘突起)や横のあたり(横突起)に歪みがあれば、
②“顔正面の位置”からアゴを突き上げ、胸を思い切り張らせ(ブリッジのような姿勢)、硬結・圧痛の消える方向に、顔を回旋させるか、又は頭を傾倒もしくはその動きを同時に行わせる。
③術者は患者の頸部を締めないように頸椎部に手をかけて若干の抵抗を与えながら牽引し、3〜5秒後に瞬間脱力。(二回反復)
→頸椎変位は上肢の捻れに大いに関係し、頭痛、耳鳴、メマイ、目鼻、歯、口腔、上気道の疾患に効く。

<昨日の操体Eに続いて、頸椎の後屈、回旋の第一分析による操法。
これも、第二分析で感覚をききわけながら、気持ち良さを感じたなら、味あう自力自動の操法をおこなうと・・・・まあ〜なんとも気持ちがいい!!!
頸椎に弱点(頸椎#3〜4辺りにかなりの硬結)を持つ私には、トロ〜とする快。
もう少し頸椎の操法は追求しなくてはなりません。
改めて、温故知新!>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/10/19

からだの設計にミスはない 写本(p94〜95)

操体療法の基本形
患者を仰臥位にしての操法。
操体E
①術者は、患者の頭部を左右に回旋して、左右のどちらかに不快感(違和感)があるかを聞く。
→右に回した方が不快感がある場合は、
②その不快感が生じた点(角度・方向)から、患者に左回旋を行わせ、術者はそれに対して軽い抵抗を与えてやる。
③患者の左回旋が最快適点に達した3〜5秒後に瞬間脱力する。(2〜3回反復)
→この“運動と抵抗”は、側・後頭部が支持されるために、術者・患者ともに少ない力量で済ませられる。

操体E`
④術者は、両手で患者の側頭部を保持し、左右傾倒を行い、左右の感覚差を聞く。(この時、後頭部は床面に触れていてよい)
→右傾倒で不快感が生じた場合は、
⑤不快感の生じた点(角度・方向)から左傾倒を行わせ、術者はそれに軽い抵抗を与えてやる。
⑥患者の左傾倒が最快適点になった3〜5秒後に瞬間脱力する。(2〜3回反復)
→これで頸部痛の緩解が可能となり、①〜⑥を行うとその
消去となる。

<この操法を自分で軽く抵抗をあたえ、仰臥位膝1/2屈曲位で行い、第二分析つまり、一番気持ちのいいところまで、からだのつくりを操り、味わい、脱力もからだに委ねる方法をとる。
何とまあ〜、気持ちの良いこと!!
15〜20分程、寝てしまっていたようです。
やはり、この本には、まだまだ宝が隠されているようです。
この操法は、本当に効きます。
これを、温故知新というんですね。>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/10/18

からだの設計にミスはない 写本(p93)

おはようございます。京都から帰ってきました。
京都駅前を23時出発の夜行バスは、翌日の6時過ぎには、東急田園都市線・池尻大橋駅前に着きます。
そこから、三軒茶屋。そして、世田谷線を使って我が家に
着くので、非常に便利です。
長年、京都美山町の山奥での生活を体験している私にとって、こんな便利な生活は恐ろしい!!と思ってしまいます。
9時30分からフィットネスクラブに通えますので、それにあわせ、早めに写本!

操体療法の基本
操体D
患者は操体Cと同じく伏臥位で両膝と→カカトをきちんと揃え、それぞれを直角に折り曲げる。
術者は患者のカカトを軸にして足先を左右に回旋。
→左に回した方が不快感があれば、
術者は足先に軽く抵抗を与えながら右回旋させ、右に回し切って3〜5秒後に瞬間脱力。(2〜3回反復)
→腰・背中へと連動するので、足先を左右に回せば、腰・背中も大きく動く。
→骨盤が動いて変化するので、婦人科・泌尿器科の患者にはよく効く。
→脊柱の歪みが元に戻されて、カイロのように椎骨の一つ一つに処理を施す必要はなくなる。

<P93にあるイラストは、伏臥位で両膝・カカトをそろえ床に対して直角に膝をまげ、足底が天井を向いています。そして、指先とカカトに手を添え補助・介助をしていますが、現在はこの介助の仕方は、非常に厳密に行われます。
右利きなら、右手親指と人差し指で、患者の親趾を挟みこみ、左手人差し指を患者の両カカト間に入れます。そして、親指、中指でカカト外側をかかえます。
上記の介助で、術者は安定したポジションを与えられることになります。
現在では、このように介助の仕方がより高度になっています。本格的に勉強なさりたい方は、「操体臨床の道しるべ 三浦寛著 医道の日本社」を参考にして下さい。>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/10/15

からだの設計にミスはない 写本(p91〜92)

操体療法の基本形
操体C
患者は伏臥位をとり、全身の力を抜く(顔は向けやすい方で)。
術者は患者の足関節を持ち、膝屈曲を行って、臀部にカカトをおしつけるようにし、左右の感覚差を聞く。
→患者は膝屈曲によって、腰部・膝・大腿部の苦痛・圧迫・突っ張り感が生ずることがある。
→この動作においては特に次の反応に注目する。
●カカトが臀部につかない。
●ついても、おしつける時の感覚が他に比べて滑らかでない抵抗感が術者の手に伝わる。
●カカトがついて抵抗感もないが、患者には左右違和感が生ずる。
→この場合は下記の動作を行う。
①術者は患者の足首を持ち、膝屈曲位から下肢を伸展させながらそれに抵抗を与え、伸びきったら3〜5秒間保持した後、瞬間に脱力する。

②術者は患者の足首を持ち、患者が膝を体側に沿ってあげていくのに抵抗を与え、足先が膝まできたら3〜5秒間保持した後、瞬間脱力する。
→①②を同時に行わせることもある。

→初めはつかなかったカカトが、つくようになるか、以前よりは曲がるようになる。

<この2つの操法は、伏臥位でよく行われるものです。前者の伸展は、現在では、患者の左膝伸展を行う場合、術者は、左手で補助するようになります。
理由は、重心安定の法則つまり「足は親指、手は小指」を遵守するためです。
伏臥位で患者の左足が伸展する場合、足の親指は内側にあり、足首を術者が右手で持つと、患者の足の親指側に術者の小指側がいくことになります。
それは、2人の関係に置いて、安定充実を生むことになるのです。>

今日は、これから夜行バスに乗って京都へ出張にでるため、これくらいにしておきます(時間がない!!)
日記は、来週の月曜日から再開いたします。
それでは ごきげんよう!

2010/10/12

からだの設計にミスはない 写本(p90)

早速、写本に入りましょう。
操体療法の基本形
1:患者は全身の力を抜いて、両手を胸に置き、膝1/2屈曲する。
術者は軽く両膝頭をおさえて左右に傾倒させ、左右のどちらがラクか、やりづらいか、その感覚差を聞く。
→仮に右傾倒に違和感があった場合は、
2:術者は患者に、右傾倒で違和感を生じた所(角度)から左傾倒を行わせる。その際、軽く抵抗を与える。
→患者は、違和感のある所から、“逃げる”ような気持ちで動く。
3:患者は左傾倒で膝が床面近く来たら、3〜5秒間保持した後、瞬時に脱力。(2〜3回反復)
→違和感は消去。

<これが、代表的な第一分析。つまり、どちらがラクか?そしてラクな方へ動き、瞬間急速脱力。
しかし、この操法で注目すべき点が2つあります。
1つは、両手を胸に置くこと。
現在では、あえて手を胸に置くようなことはしません。しかし、これには、橋本先生のある意図を感じます。
つまり、肩甲骨間を広げ、背中をやや丸くすることにより、腰と肩甲骨との連動をスムーズに行わせるように思います。
実際にやってみると、このやり方の方が上体の動きがよくなります。
これこそ、温故知新!今後の臨床に使ってみます。

2つめは、右傾倒で違和感を生じた所(角度)から左傾倒を行わせるやり方。現在の第一、第二分析でも、これだけ広い可動領域を扱っていません。
仰臥位両膝1/2屈曲位からスタートします。
較べてみると、右傾倒で違和感を生じた所(角度)から、中央に起き上がる時のほうが、快適感覚を感じられる確率が高いようにも思います。
ということは、治療に幅が出来るということです。
これまた、今後の臨床に結びつくヒントを戴いたような気がします。
本当にありがとうございました。>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/10/11

からだの設計にミスはない 写本(p89)

おはようございます、なんと2日間もブログをさぼってしまいました。友人との飲み会が続いております。
今日は祝日、天気もいいし、気持ち良く写本をいたしましょう。
操体療法の基本形
1:患者は全身の力を抜いて両手を胸にゆったりと置き、両膝を軽く触れるくらいで膝を1/2屈曲。
術者が患者の下腿上部の膝うらを指で横断的に探ると、ものすごく圧痛のある腱緊張にふれることがある。

2:術者は患者の足背部に両手を置く。
患者はかかとを支点とし、足指を反り返らせて、足背部を徐徐に持ち上げていく。
術者はその持ち上がっていく足背部に若干の抵抗を与えてやる。
3:患者は持ち上げた足先の最高点を3〜5秒間保持した後、瞬時に脱力。(2〜3回反復する)
→圧痛のある腱緊張は消去。

<これは、つま先をスネに背屈する操法です。現在では、この操法は、第一分析として扱われ、実際の臨床ではあまり使われていません。
特に、橋本先生が述べられておられる2:における患者の足背部に両手を置く、という技法は、あまりにも高度な技法で、初心者には出来ません。
イラストが入っているこの説明に、「かかとを支点とし、足背部を徐々に持ち上げる」とあり、それに対して上から↓があり、「抵抗」と書いてあります。

これを読む限りでは、かなり押さえつけるイメージが湧いてきます。しかし、実際には軽く添える感じで患者の背屈を1秒半遅れで誘導する感覚なのです。
この感覚を身に付けるには、かなりの学習が必要となります。

また、3:における足先の最高点を3〜5秒保持とありますが、これは最大の可動領域のことと思われます。しかし、臨床で実際に行われている操法は、可動領域には拘りません。
患者本人がききわけた感覚を一番大切にします。極端な話ですと、つま先を上げようとした瞬間が、最高に気持ち良いとすれば、それを味わうだけで、操法として通すことができます。傍目で見れば、何も動いているように見えなくても、患者のからだが気持ち良さを味わっていれば、もうそれで治療(操法)なのです。>

橋本先生がこの本を出版され30年以上経っています。操体はその間、めまぐるしく進歩しているのです。
楽を通すことから快を通す操体になり、世の中もやっと快に価値を見いだし始めています。
やっと、操体の真価を問われる時代になってきています。
今日は、ここまで。では ごきげんよう!

2010/10/08

からだの設計にミスはない 写本(p88)

昨日は、大学時代のクラスメートと夜遅くまで酒を酌み交わしたので、日記を書く時間がありませんでした。
申し訳ございません。

それでは、写本に移ります。
4:体の動かし方ー運動の根本は、体の中心(腰)に重心を安定させてやることである。
そのためには、上肢では手の小指側に、下肢では足のオヤユビ側に力をいれるように動くとよい。
履物の外側が減っているのはその反対現象であるから要注意。
スポーツも体の組立てが平均しないまましごくと悪い結果を招くおそれがある。前掲の基本体操をやるとよい。
右利きの人は、右足を後ろに引き、作業せよ。

この四つの営みと環境との五つは、いつでも同時相関しているから、法則に従えば適応してきて健康になる。

この身体運動の法則は、現在は、重心安定の法則、重心移動の法則と2つに識別するようなりました。
三浦寛先生の「操体臨床への道しるべ」には、この重心安定の法則を2つにポイントを絞り説明されています。
1) 立位の姿勢
 両足を腰幅に開き(両側の内側を基準にして腰幅に開くこ
 と)、つま先と踵を並行させ、両膝の力を抜いて緩め、軽 
 く背筋をのばし、正面の一点を見つめる。その結果、重心 
 が、両足の母指の足底にかかる。

2) 手の使い方
手の小指を運動作用点もしくは、運動力点がかかるように使うということである。
これだと、肘が正中線に向き、腋がしまってきます。

重心移動の法則は、重心安定の基本原則に基づき、からだの動かし方における基本原則を説き明かしたものです。
つまり、前述の体幹の左右側屈、捻転、前屈、後屈における重心移動の法則です。

現在は、もう少し深く追求していますが、一遍に書くと、混乱しますので、今回は省略いたします。>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/10/06

からだの設計にミスはない 写本(p87)

101006ブログ

3:精神活動—自然界に生をうけたことは、これに適応する素質を与えられている。この恩恵を認識できれば感謝が湧く。
感謝のない人生ほど悲惨なものはない。
人は天地の恵みと親や人々の愛情に支えられて生きている。
不平不満はこの恵みに目ざめないからである。
常にこの恵まれていることに心をくばり、さがし求め、気がついたらそのことを口に出して感謝せよ。
鼻をつまんで堪えてみよ。
一日断食してみよ。
空気と食物がどんなにありがたいか。感謝すれば心は明るく嬉しくなり、行動も親切になる。
運命は好転する。運命は口から出す言葉の方向に進む、という法則に従う。

<簡単な文章のなかに、深い意味合いを感じます。
「自然界に生をうけたことは、これに適応する素質を与えられている」もうすでに、救われているということです。まず、そのことに感謝すること。心から感謝できる自分であること。
どんなことがあっても、そのことに感謝できる心を持つこと。実は、このことを常に神様がためしておられるのだと思います。

そして、本当の心で言葉にすれば、その通りの運命になっていくのだと、思うようになりました。>
今日は ここまで、では ごきげんよう!

2010/10/05

からだの設計にミスはない 写本(p86)

生き方の自然法則
1:呼吸—腹式深呼吸がよい。
夜、床に入り眠る前に、膝を立て手を下腹にあて、腹を凹ませながら息を吐ききる。吸う時は自然に充分吸う。力み過ぎるな。
吐く息を長くゆっくり。毎晩10回ぐらい練習する。一分間に2〜3回の呼吸が出来るように。

2:飲食—歯の種類と数に注目。
これに比例させるように、前歯—野菜8、犬歯—肉4、臼歯—雑穀堅果類16、肉食は1/7だ。
動物食過剰は不自然、植物食が自然である。
何でも自然食を工夫料理して、よく噛み、唾液を多く出してドロドロにしてから胃に送る。このようにして食べると不自然なものが嫌いになる。
白砂糖の過食は危険である。

<この2つは4つある自己責任の営みのうちの2つ。特に食事に関して、私は素食を旨としています。
断食をして食べない快を経験すると、食べるということは、体内(40度近くあります)に腐った物をため込めることにもなる。よっぽど、考えて放り込まないと、大変!!

という考えになってきます。そして、変なものを食べるのだったら、食べないほうが利口!と思ってしまうのです。
こんなに多くの食材が出回っているのですから、少々食べないくらいの方が、精神的にも安定するように思います。>
きょうはここまで、では ごきげんよう!

2010/10/04

M君

京都から、帰ってきました。
京都、美山町にある我が家を借りてくれていた方が、引っ越すことになり、次に住む人を探していたのですが、なかなか見つかりません。

そんな折、
「佐伯君、住む人みつけたわよ!M君。」
美山でお世話になりっぱなしの美衣さんから電話。
美衣さんは、私が何かするとき、いつも流れを作ってくれる女神さまです。
本当に神の声のようでした。

M君といえば、10数年前、東京生活に疲れて我が家に遊びに来たことがあり、そこで、知った田舎生活が刺激となり、現在では、美山町の林業家の従業員となり、充実した田舎生活を送っています。

M君のお父さんは、20数年まえ私が保育園の体操指導をしていた時の社長。今だにお付き合いしています。

M君に電話をしたところ、珍しく京都市内に所用があり、会うことにしました。

元気そうに日焼けしたM君。
とても精悍です。

「いつか、ごんちゃん(私のこと)の家みたいなところに住んでみたいと思い続けていたんですよ。」
M君にとって我が家は、特別の意味があったようです。どうやらその思いが私にまで届いてきたようなのです。

10数年前の数日間が、我々の今を新たに作り上げてくれたのです。
M君が住むことで、家が喜んでいるのもわかります。

神様が不思議な不思議な縁を作り上げて下さっているのですね。
今日の日記はこのお話のみ。
明日から、また写本をします。では ごきげんよう!

2010/10/01

からだの設計にミスはない 写本(p85)

今、東京操体フォーラム実行委員のメンバー、山本明氏が
スペインでのフォーラムの様子を丁寧に紹介しています。
興味のある方は、tokyo-sotai.comを開いてブログをご覧になってください。

さて 写本。
6:自然体で立つ。
爪先立ちして両手を上へ上げる。
グラグラしないように。
3〜5回以上、朝夕二回やる。
動く時は必ず呼気でハズミをつけずにやる。時間がなかったら、3、4、5、だけでよい。
毎日やっていると、年齢性別でおそい速いはあっても、必ず体が軟らかくなり、前屈しても手の平がラクに床にピタリとつくようになる。
死ぬまでやれば、生きている間、健康で気分よく楽しく幸せな毎日がおくれる。

上級操体法は、基本姿勢をホッと一息はいて腰を落とし、膝をゆるめて全身バランスをとる。

<ここまで、写本して、現在の身体運動の法則の原点を発見しました。橋本敬三先生の偉大さをツクヅク感じた次第です。
実は、この6:の動きは現在の身体運動の法則では扱っていません。
ポイントは、『時間がなかったら、3、4、5、だけでよい。』
です。本来は前屈、後屈、左右捻転、左右側屈が基本で、それが3、4、5、なのです。
ところが、橋本先生は、多くの人々に普及しようとし、1、2、6、を付け加えたのだと思います。
それを物語っているのは、『上級操体法は、基本姿勢をホッと一息はいて腰を落とし、膝をゆるめて全身バランスをとる。』
つまり、本来ならば、膝を緩めた状態を常に取って戴きたいのですが、これは一般の方には、なかなか難しい。
橋本先生はそのことを、充分理解されておられたので、普及活動をしながら、上級操体法という身体運動の法則に導いていこうとされていたのだと思います。>

きょうはここまで、明日から出張です。この日記は来週月曜日から、再開いたします。
よい週末をお過ごし下さい。では ごきげんよう!

からだの設計にミスはない 写本(p85)

今、東京操体フォーラム実行委員のメンバー、山本明氏が
スペインでのフォーラムの様子を丁寧に紹介しています。
興味のある方は、tokyo-sotai.comを開いてブログをご覧になってください。

さて 写本。
6:自然体で立つ。
爪先立ちして両手を上へ上げる。
グラグラしないように。
3〜5回以上、朝夕二回やる。
動く時は必ず呼気でハズミをつけずにやる。時間がなかったら、3、4、5、だけでよい。
毎日やっていると、年齢性別でおそい速いはあっても、必ず体が軟らかくなり、前屈しても手の平がラクに床にピタリとつくようになる。
死ぬまでやれば、生きている間、健康で気分よく楽しく幸せな毎日がおくれる。

上級操体法は、基本姿勢をホッと一息はいて腰を落とし、膝をゆるめて全身バランスをとる。

<ここまで、写本して、現在の身体運動の法則の原点を発見しました。橋本敬三先生の偉大さをツクヅク感じた次第です。
実は、この6:の動きは現在の身体運動の法則では扱っていません。
ポイントは、『時間がなかったら、3、4、5、だけでよい。』
です。本来は前屈、後屈、左右捻転、左右側屈が基本で、それが3、4、5、なのです。
ところが、橋本先生は、多くの人々に普及しようとし、1、2、6、を付け加えたのだと思います。
それを物語っているのは、『上級操体法は、基本姿勢をホッと一息はいて腰を落とし、膝をゆるめて全身バランスをとる。』
つまり、本来ならば、膝を緩めた状態を常に取って戴きたいのですが、これは一般の方には、なかなか難しい。
橋本先生はそのことを、充分理解されておられたので、普及活動をしながら、上級操体法という身体運動の法則に導いていこうとされていたのだと思います。>

きょうはここまで、明日から出張です。この日記は来週月曜日から、再開いたします。
よい週末をお過ごし下さい。では ごきげんよう!

2010/09/30

からだの設計にミスはない 写本(p84)

身体運動の法則
5:体を横に捻る。捻って顔の向く方の足に重心をかける。反対の後ろの方のカカトは浮き上がる。捻る方の足の平の内側が浮かび上がらぬように、ピタリと足の平で床をふむ。左右交互にやる。
向き易い方は歪みを元に戻すバック運動になっている。
やりにくい方は、それ以上無理するなと赤ランプの警報信号が出ておる。
バック運動して正位置に復すると、やりにくかった方のやりやすくなる。ここが一般のやり方と違う。シゴカないで気持ちのいい運動をすればよくなる。(3〜5回)

<これは、捻転の動き。捻転は捻転する側に体重を移動するのが、原則。
ところが、日常生活では、後ろから背中を叩かれ、思わず振り向くと、捻転する側と反対の方に重心を置く場合があります。このときは、末端からの動きではなく、腰から動いています。腰から動くと身体運動の法則を無視して全く逆の動きを取る場合が生じます。
そのようなときに、ぎっくり腰をしてしまうのです。

ぎっくり腰をする時って、何気ない動きの時が多いのですが、必ずこのような、身体運動の法則から逸脱しているときに起こるのです。

この捻転の動きを追求していくと、足の母指球にある2個の種子骨が非常に重要な役割をしているように思います。
この種子骨は、中指骨の骨頭の両脇にあり、自転車の補助輪のように安定を保つ役割をしています。

からだの微妙なバランスを取るのに、この種子骨の中点、接地面が重要な役割を果たしています。

これと同じように、手のひらの小指側の尺骨遠位に豆状骨という小さな豆があり、物を持ち続けるのに重要な役割をしています。腕立て伏せをするときに、無くてはならない、四つ足で歩いていたときに、使われていた骨です。

このような小さな骨がからだの微調整をしているのです。>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/09/29

からだの設計にミスはない 写本(p82)

それでは、写本。
身体運動の法則
4:自然体で立つ。
上体を横に倒す。倒れる方に体重をかけてはならない。(重要法則)
反対の方に体重をかけるため、グーと押してやるようにすると、倒れる方のカカトが少し浮く。
無理しないこと。
但し、どちらかやい易い方をすこし強く1〜2回余計にやる。(3〜5回)

<この動作は、側屈。よくラジオ体操やテレビ体操で足を肩幅に開き、右側屈をいかにも自然体でやっているように見せていますが、あれは、身体法則に反しています。あんなことしたら、腰を痛める人がたくさん出てきます。
それに対して、NHKは責任を取っているのでしょうか?

よく考えてみてください、下肢が肩幅を底辺にして腰を受け皿に三角形を作り、上体だけが右側屈したならば、どう考えてもバランス悪いでしょ!

バランスは本人の感覚を通してわかりますが、客観的に、視覚的にもバランスの善し悪しはわかります。
こういうアンバランスのとき、からだは何か、囁いています。
「ちょっと、痛い!」
でも、これがからだに良いんだという思い込みが鍛錬だと勘違いして、歪みを作っていくのです。

右側屈するならば、必ず左重心にならなくてはなりません。
こんな簡単なことを、小学校、中学校もうどこでも教えていません。
これが問題!!
この身体運動の法則に関しては、実は、山ほど言いたいことがあるのです。ですから当分、写本少しの、あとは言いたい放題になると思います。悪しからず!>
というところで、今日はおしまい。では ごきげんよう!

2010/09/28

からだの設計にミスはない 写本なし

一雨、一雨夏の暑さを忘れさせ、冬の予感を演出しているようです。

さて、今日も身体運動の法則に参りましょう。
後屈。
右利きの方は左に重心がいっていることは、ご存じでしょうか?
たとえば、相撲の土俵入りの四股踏み。まず、左に重心を掛けて右足で四股を踏みます。その次に右足に重心を掛けて、左足で四股。最後にもう一度左足重心で右足四股。

これは、実に自然な流れだと思います。つまり、重心が左のある多くの人が、四股を踏むなら四股を踏みやすい左重心の四股が2回。右重心が1回。

そんな時、左効きだった、朝青龍や琴櫻は、最初は多少の違和感があったにちがいありません。

少し話しがそれてきました・・・
そう、後屈です。
後屈はそもそも、日常生活ではほとんど取らない動き。ということは、だれもが苦手とする動きなのです。そんな動きを取ること自体が不自然です。
ましてや、重心がまったく逆になると、からだを痛めてしまいます。
ですから、慎重にやりましょう。

後屈の場合、自然体の立位を工夫します。
普段は、左足を半歩前に出すのですが、反対の足、右足を半歩前に出します。
すると、重心がどうなるかというと、完全に左足に移ってしまいます。もう、後屈をしなさいと言わんばかりのポーズ。

そこで、右足の中趾指節関節・拇趾球を前に押し込む・・・・
すると、あらら・・・からだはゆっくりと後屈してきます。
しかも、完全に重心が左足に乗っていますので、スムーズに後屈の動作が行えます。

どうやら、この章は、このような説明が多くなりそうです。

明日は、写本を行います。
では ごきげんよう!

2010/09/27

からだの設計にミスはない 写本なし

100927ブログ
先日の操体勉強会では、三浦先生のスペインでのご活躍の様子を報告されました。
宗教的な戒律に縛られ、自分を縛っている雰囲気が、一瞬にして感じとられた、その感性に驚嘆いたしました。
さすが、わが師匠であります。

日本大使館でも、日本人に対して講演をされ(テーマは、腰痛を治すには?というコトだったのですが、まず、心を解放しなさい、そうすれば腰痛など、治ってしまうと趣旨を話され、拍手喝采だったそうです)
さあ、これから操体が益々面白い展開をしていくことになります。
私もその担い手としてしっかり精進するつもりです。
では 写本。
といきたいのですが、昨日の続き、前屈と後屈の説明を行いたいと思います。
先日、自然体の立ち方を、
「これはまず両足を腰幅に並行に開き(この場合、両足底の内側間が腰幅)、膝を緩めます(膝を緩めるのは、簡単そうで難しいものです。お尻の筋肉を緩める意識にスイッチを切り替えるとやりやすい)
右利きの人は右足に重心を移し、左足を軽く浮かせます。そして、左足をやや内側に向け、前方に半歩だします。すると
おヘソは、やや斜めを向いています。
そのため、ゆっくりとおヘソをゆっくり正面に向くようにします。
このとき、ゆっくりと目線を正面にもっていくと、自然に腰も正面を向くようになります。
このとき、腕はやや外旋気味に手のひらが正面を向きます。」

と説明しました。
さて、この状態から動作を始める場合、ルールがあります。
1:末端から動き始め、主幹そして末端へと連動していく。
これは、身体運動の法則における鉄則です。橋本先生がこの身体運動の法則を唱えられた時は、まだその点は、明解ではありませんでした。
そのため、腰から動くこともありました。
しかし、今は、末端からの動きが原則となりました。

それでは、前屈を末端から・・・
皆さんは、少し戸惑うかもしれません。
① 自然体でゆったりしたポジションから、左拇趾球を前方にゆっくり踏み込む、すると重心が少しずつ後方にいき、徐々に上体が前屈してきます。もう、こうなったら、その動きに委ねるだけです。いつの間にか前屈しています。

まあ〜、うそかホントかやってみて下さい。
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/26

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p64)

おはようございます、昨日は、GALLERY SEE BEYOND と言うところで、楽しい展覧会があり、その後、操体の同門が知人のコンサートに招待してくれました。
80年代の歌を弾き語り。
これまた、楽しい一時でした。そのため、ブログをお休みしてしまい申し訳ありませんでした。

GALLERY SEE BEYOND、そしてコンサートともに、ご自宅を提供して生活の中に芸術を取り組み、人々を巻き込んでいくという活動をされています。
これは、家族、近所のご協力、理解がなければ成り立たないことで、日頃の生活態度が素晴らしいことを計り知ることができます。

そして、東京の懐の深さを感じ入った次第です。
この場をお借りしまして、ご招待戴いた田中稲翠先生、主役
の若きアーテイスト・一ノ瀬美生氏、ケイト クラーク氏、コンサートに誘って戴いた横山珠水氏、道案内して戴いた西田尚史氏、田中稲翠先生を紹介して下さった畠山裕美先生に心より感謝申し上げます。

それでは、写本。
       身体運動の法則
3:自然体で立つ。
静かに上体を前に倒して屈する。頭も手もダラリと下げる。ゆくところまででよい。無理しないこと。
止まったところで一息つく。
体をおこす時は、まず顔を先におこしておいてから体をおこす。

今度は体を後ろにそらせる。
前後屈伸に止まったところで一息ついて休む。顔を上げてからおきると、下腹に力が入る。
腰を前後に軽く加減して動かすと角度が大きく、らくにできる。
無理して苦しいのを我慢して大きくやろうとするなかれ。回数がかさなるとダンダン大きくらくに動いてくる。(3〜5回)

<ここで、改めてこれは、身体運動の法則であり、体操ではないということを、申し上げなければなりません。
現在も、この身体運動の法則(からだの動きの真理)は三浦先生が追求され、我々弟子がその継承をしています。
そのため、橋本先生が提唱された上記の前屈後屈は、もっと細かい視点が満載されています。

これからそれを、一つ一つ検証していきます。
自然体で立つ。
これはまず両足を腰幅に並行に開き(この場合、両足底の内側間が腰幅)、膝を緩めます(膝を緩めるのは、簡単そうで難しいものです。お尻の筋肉を緩める意識にスイッチを切り替えるとやりやすい)
右利きの人は右足に重心を移し、左足を軽く浮かせます。そして、左足をやや内側に向け、前方に半歩だします。すると
おヘソは、やや斜めを向いています。
そのため、ゆっくりとおヘソをゆっくり正面に向くようにします。
このとき、ゆっくりと目線を正面にもっていくと、自然に腰も正面を向くようになります。
このとき、腕はやや外旋気味に手のひらが正面を向きます。

この状態が自然体です。
このように、それぞれの動きを事細かく検証しているので、長い説明になります。前屈、後屈は明日説明する事に致しましょう!>
今日は、これまで、では ごきげんよう!

2010/09/24

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p63)

肌寒い日が続き、秋を通り越して冬を感じてしまうこの頃になりました。
本日、三浦先生はじめ、スペインで操体を披露された御一行が、11時45分に帰って来られました。で・・・・たった今、三浦先生から電話が入ってきたところです。

私が、2度ほど電話をし、しばらくたった後、
「あっあ・・先生、お帰りなさいませ!」
「は〜い・・・今、高速を運転中だから、またあとで連絡するよ!」
と、非常に張りのあるお声が、帰ってきました。
まあ〜、相変わらず間の悪い電話を入れてしまいました。
なにはともあれ、お元気そうで、こちらも勇気と元気をいただきました。
ありがたいことです!

さて、昨日の目覚めの重だるさに関して。
もうこれは、昼寝をするしかないと思い、2〜3時間昼寝をしてみました。
そして、その寝起きの良いこと!!
からだ全体が浮き上がっているような、気持ち良さです。筋肉の隅々までがほぐれて、再生したような感覚。

やはり、「勘」は当たっていました。
今日のフィットネスでも、先日の続き、つまり最小限の負荷で、太極拳のような動きのエクササイズをして、もう少し様子を見てみようと思います。
それでは、写本。

身体運動の法則
1:足を腰の幅だけ開き、爪先を並行させて、ゆったりと腰と背骨を直立し、眼の正面の一点をみつめる。ゆっくりと静かに両手を水平に上げ、一息したらバサーッと両手を落とす。
時のどちらか上げにくい方があるかも知れぬ。その時は、そちら側のあしに体の重心をかけてやると、よく上がるようになる。

2:1の如く正面の一点をみつめ、両足をピタリとつけ、尻をグッと後ろにひき、膝と背骨を真っ直ぐに伸ばしアゴを引く。膝を直角になるほど高く上げ、足のウラが床に平らにつくように強くドンドン足踏みをする。この時、手は大きくふる。30〜50回。

<ここまで、写本をして、違和感を覚えてしまいます。というのは、現在では、この2つの動作を身体運動の法則には、組み込んでいないからです。
ですから、身体運動の法則に至るまでの、準備運動、リラックスする方法と思って戴ければ、と思います。
明日から、身体運動の法則に入りましょう。>
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/23

からだの設計にミスはない 写本なし

おはようございます、今日は秋分の日。
普段は目覚めのいい私なのですが、今朝はからだが重く全くやる気がでてきません。

どうやら原因は、昨夜のフィットネスクラブ。
「ちょっと、挑戦してやろう!」と最少負荷で、15回2セットの時間を、出来るだけ長くしようしました。
そのため、筋トレ用に20近くあるマシンのうち、5種類しか使用できず、それだけで1時間以上費やしました。
丁度、最小限の負荷をかけ太極拳をしているようなイメージ。

伸展していく筋肉の紡錘一本一本を感じながら、行いました。
途中で、交感神経ばかりでなく、副交感神経が働き眠くなるような快に近い感覚を感ずることもありました。
普段つかってない筋肉、特にインナーマッスルと言われている筋肉が総動員したのではないかと思います。

はたして、このやり方がいいのか悪いのか。これは、からだが教えてくれます。
今日に関しては、休みなさい、です。

この感じだと、明日は快適感覚の予感。
なぜなら、普段使ってない筋肉の動きから、快の予感を感じていたから。
「感」という言葉が、多く使われていますが、これは「勘」につながります。勘は原始感覚。
からだを通した「勘」は良く当たります。
明日が楽しみです。


昨日で、写本第一章は終了。全部で五章ありますので、まだまだ道はながいのです。
第二章は身体運動の法則を具体的に説明する章なのですが、現在我々がおこなっている身体運動の法則と、若干の差違があります。また、私自身の見解もあるので、この章はじっくりとやっていくことにしましょう。

ということで、今日は写本なしのオリエンテーションのみにいたします。
それでは ごきげんよう!

2010/09/22

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p58〜59)

天気予報によりますと、夏日は今日まで。
世田谷のど真ん中でも、夜には虫の音が聞こえ、近づく秋を感じています。

スペインからの情報が全く入ってこなくなり、どのような操体フォーラムになったのかわかりませんが、大好評で成功裏に終わっていると、確信しています。
現地時間の9月18日、19日の二日間。
これからは、操体の国際化も堰を切ったように展開してゆくでしょう。

新たな、一歩がこれから始まろうとしています。私も、乗り遅れないように、写本!

        取る取らないはテメエの勝手
でも私はそれでも良かったと思っている。いくら家内とは一心同体だなんて言ったって、確かに生活においてはそうだけども、人間の心を変えることはできないですよ。
「じゃじゃ馬ならし」とか何とかよく言うが、そんなのはノサバった考えだと私は思う。

人を自分の思うようにしようとしたら、ヒットラーやスターリンのようになるしかない。思ったようにするには人を殺さなくちゃできないですよ。
徳をもって化するなんていうのは並たいていのことじゃない。

釈迦だってキリストだって、あれだけの人にしたって、その話を聞いた人がみんな救われているかというと、そうでもない。
それは、一人か二人ぐらいはね、お釈迦様の話が通じたかもしれない。あの蓮華の花を見てニッコリした男のように。
だから元祖の思想というのは後代になかなか伝わらないんだ。みんな宗派にわかれてしまう。

私はよく、この操体を広めるために何か組織を作ったら、と言われるんだが、私はいやだと言うんだ。
あちこちに健康のためにいろんな組織があるけれども、あんなのを作って私を会長にして、というのはおことわりだというんです。作るんなら作ってもかまわん、私のやっていることを広めるんなら、どんどん広めてくれ、だけども私はそれには加わらないよ、というわけです。

私は言うことだけはいう。それをあとで取る、取らないはテメエの勝手だ、というような気持ちだな。誰がどうしようが、何がどうなろうが、自然法則だけは変わらないんだからー。

私には、自分のやったことを残そうなんていう気はないね。
ただ、本当のことはこうなんだよ、と自分で経験したことはみんなに言うけれども、それを取る取らないは勝手なんだ。
私の云々する問題じゃないんです。
みんなそれぞれが、自分のやりたいことをやっていけばいいんだ。それが気持ちのいいことならね。
まあウソがホントがやってみな、ということだ。やってみないで、ケナシてもホメても意味ないよね。
   ー橋本敬三著ー
<橋本先生は、名前なんてどうでも良いんだ、大切なのは真理だ。とよくおっしゃっておられたそうです。
筋ジストロフィーの男の子が操体でよくなっていく様子をNHKが番組にしたとき、初めて「操体」という名前がつきました。
それまでは、名無し。つまり、真理を突き詰めることがたいせつで、名前はどうでもいい。
しかし、公にするにはレッテルは必要・・・・橋本先生の真理・自然の法則に対する謙虚さが、レッテル作りを拒まれたことでしょう。
我々3代目の弟子は、この精神をいつまでも持ち続けなければなりません。>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/09/21

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p57〜58)

私が利用する東急世田谷線は、2両編成の可愛いチンチン電車。
住宅地の合間をゆっくりと走り抜けます。
途中、信号待ちの時間があったり・・・そんな時は、窓越しに洗濯物が目の前にみえたり・・・・
線路横の青々とした草むらに、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が一輪咲いていました。

この暑い夏日でも、お彼岸にあわせて精一杯生きているんですね。

さあ私も頑張って、写本。

      取る取らないテメエの勝手

私は毎月、月末になると多少の不安を感じるんだ。今月は支払い大丈夫かなと思ってね。
まあそれは、今に始まったコトじゃなくて、開業以来ずーっとだから慣れっこと言えば慣れっこになっちゃっているけども・・・・。でも、何とかやってこれた。
死んだ家内には世話をかけたけどな。

私のせがれの一人に言わせれば、おやじは綱渡りをしているって言うんだ。
「おやじ、それでいいんだよ。とにかく墜落しないんだから、地上最大のショーじゃないか」とね。
そう言われた時は正直言ってうれしかったねえ。

このせがれは三男坊で、今でこそホテルオークラで責任のある仕事をやっているが、こいつがもう道楽者で、学生時代から遊びにかけては天下一品、私も好きなことをやれやれってハッパをかけたけども、でもまあのびた方だねえ。
いやあ、私の子供なんて上等に出来たのなんてあんまりいないからね、PTAに行けばいつも後ろの方の席で小さくなっていたものです。

家内は家内で、もう根っから現代医学の方がいいと思っていたから、私が現代医学の方で出世して大病院の院長にでもなれば満足したろうが、その反対の按摩とか、鍼、灸みたいなことばかりやっているから、ほんとうにしょうがないおやじだと思っていたでしょうね。

<橋本先生の三男の方は、ホテルオークラの副社長にまで出世されました。経営コンサルタントの大前研一氏がある雑誌で、副社長の橋本保雄氏が亡くなってから、ホテルオークラの接客が変わってきた・・・等、橋本保雄氏がなされた業績を非常に評価されていました。
それから、三浦寛先生が、「橋本先生は、どこか寂しい目をされていたんだよな。」
とポツリと話されたことがあります。
最愛の奥様に、橋本先生の仕事を理解してもらえなかったこと、奥様の期待通りの人生ではなかった・・・しかし、それは仕方がないこと・・・
夫婦といえども、所詮は他人同士。
そりゃ、なかなか上手くはいかないものです・・・

でも、いつかいい人見つけよーっと!!!>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/09/20

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p56〜57)

おはようございます。
今日は友人の鈴木啓造さん宅でコーヒーを飲んでいます。
スズメの声がちゅんちゅん気持ちがいい朝です。

昨夜は、純米酒「綾小町」を飲みながら、
下の画面を肴に話が盛り上がりました。
この動画は京都・大徳寺での一こま。

三浦寛先生が私の体を触れることなく、
一瞬にして、無意識の動きを引き出してくださいました。
このときの状況は、意識は明瞭で、
まるで幽体離脱し、勝手に動く体を鳥瞰しているような感覚でした。



http://www.youtube.com/watch?v=JLkVCPdZhLU&feature=player_embedded

それでは、写本。

アメリカのグレン・ドーマンという人は、「親こそ最良の医師—いかにして脳障害児を治療したかー」という本を出していて、ソニーなんかがそれを応援していますが、私からみると、あれもある程度は可能かもしらんが、あれだけではダメだなと思う。もっともっと中へ入らなきゃー。
そうすればもっともっとよくなる可能性は十分にある。

初めは私も、中枢神経の何かに損傷があった場合にはだめだろうと思ってあきらめておったんだけども、やっているうちにいろんな変化が現れてくる。これは何とかなるぞ、という気がしてきた。

脳の中の変化っていうのは、みな表面に出てくるんですよ。近頃、中国では頭皮鍼というのをやっているらしいが、日本でもその辺のことに注目している人はたくさんいる。
脳のどういう部分の変化がからだのこういう所に出てくる。そして、そこを刺激すればどういう効果が現れてくる、というような研究がね、将来どんどん進むだろうし、その可能性も出てきているんです。

そんなわけで、私は大いに望みを持っているが、それじゃ、いったい今はどうしたらいいのか、と聞かれても、私にはまだ答えようがない。こうしなさい、という具体的なものははっきりわからないが、まあダマされたと思って操体をやってごらんなさい、ということですよね。

操体といっても、家庭でのクスグリ療法が主なもので、やっぱりお母さんが一生けんめいでなくちゃ、まず見込みがない。
子供の病気はお母さんの病気なんだ。
お母さんがまずこの療法を理解してくれて、朝晩少しの時間でも子供にしてやることができたら、大いに望みはありそうな気がする。

小児テンカンは実によく治る。ワキ腹や足のウラをチョコチョコやるだけで著しく変わってくる。
クスリ漬けの児がその必要がなくなってくる。正常児に戻る。 —橋本敬三著— 

                                    

<改めて、操体の可能性を感じます。今日は、藤枝で親友の鈴木敬造氏に操体施術を行わせていただきました。
氏は立位が一番楽。
そんな場合、立位のままでも操体施術は可能なのです。
鍼治療でも、立位でできますが、その場合血流が一気に刺鍼部周辺(刺鍼した場合、10倍の血流があると言われています)に流れるため貧血が起こり、倒れる可能性がある程度あります。
その点操体は安全です。
様々な可能性を秘めた操体を、私なりに追求していきたいとおもっています。>
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/16

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p55〜56)

今日は、実技テスト。
何とか、合格したかな?
二学期からほぼ毎朝、お灸の練習をしていたのですが、これがやはり本番で生きて来ます。
全く力みが無いまま、テストに臨めました。

何故、力まなかったかというと、お灸の試験の前に、鍼の試験があり、その最後のモデル(鍼を打たれる被験者)が私だったからです。

つまり、私と、私に鍼を打つ女性との2人が、お灸の準備が出来ないまま、テストを向かえることになったのです。

バタバタとお灸のテスト用に道具を並べて、やっと出来たら、即試験。
緊張する間も無くテストが始まったのです。もう、無我夢中でお灸をすえました。6壮以上すえなくていけないのですが、なんと12壮くらいすえてしまったようです。
私は、全く数を数える余裕もなかったのですが、隣りにいたクラスメートが数えてくれました。

大切なのは、自然体。

それでは、写本。
筋ジストロフィーと知恵おくれ

今ね、宮城教育大学の川上吉昭教授を中心としたグループと、私たちも参加して月一回研究会が開かれています。
これには筋ジストロフィーや身心障害児たち、その親御さんたちも加わって、その症状の変化や進展についての細やかな検討や意見の交換が行われております。
筋ジストロフィーについては、NHKテレビにも取り上げられて、確かに効果があること、少なくとも現状のままで症状をストップさせることはできそうだということ。
更には、例の少年のように、歩行不能といわれたものが、水泳が出来るようになり、運動会の競技にまで出られるようになったというように、めざましく回復することもあるということなどがわかってきました。
しかし、ここでいう回復ということは、筋ジストロフィーそのものが回復したということではなく、要するに、ジストロフィーによる機能の衰えを、ある程度高めたという意味ですがー。

知恵おくれの方にしても、私はその可能性を信じているんです。茂貫さんたちが民間の知恵おくれの子供たちの家へ出かけて行っては操体を教えてやっているが、二三ヶ月前に会った時と今とではまるっきり様子が変わっている。
この前も宮城教育大へその子供たちを連れて来ていたけれども、その顔、その目の色、動作の一つ一つが確かに変わっているんですよ。
視線があんまりまとまりがつかなかったのが、ちゃんと物を見るようになったとか、声の出し方が違ってきている。ということは、まだどんどん進展する可能性があるということです。
時間はかかるだろうが、私は必ず可能性はあると思っています。

今日は、ここまで、では ごきげんよう!
明日は、京都に出張。
月曜日から、日記は再開いたします。

2010/09/14

からだの設計にミスはない

本日、明日はテストの前ですので、お休みにいたします。
申し訳ございません。

2010/09/13

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p54〜55)

小さな部屋で、圧力釜を使って玄米炊くと、それだけで、部屋が暖まります。
炊きあがった暖かいご飯を、食べると、滝のような汗!!
ご飯を食べて、こんなに汗かいたのは初めてです。
でも、なんだかすっきりとした元気を戴きました。
暑さに感謝!

それでは、写本。
この神経のことを話せばいろいろなことがあるのだが、とにかくね、のぼせたり、落ち着いたりするのは、この自律神経で調節できるというわけです。

このことは、呼吸、つまり息のつき方でもそれができるということだ。
例えば、歌のコンクールなんかであがってしまって、うまく声が出ない。医学的にいえば、交感神経が興奮して緊張が高まり、その度が過ぎるとのぼせて胸に力が入る。すると胸元やのどから、自分でもおかしくなるほどの
素っ頓狂な声が出てくる。
この時「腹に力を入れて、腹から声を出して下さい」と言われて、ハアーっと息を呼きながら腹に力を入れるようにすると、副交感神経(迷走神経)が刺激されてスウーと落ち着いていく。
そんなふうになっているんです。息のつき方一つでも、そのやり方如何で、案外、落ち着いた安定した生活が出来るんじゃないかと思います。

<さあーて、これから、フィットネスクラブにいって、もう二汗かいてきます。やはり、暑い時は、汗をかくのが一番!>
きょうは、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/12

からだの設計にミスはない 

100912ブログ
きょうは、弟の誕生日。
電話をすると、お祭りの準備で大変そう。次男坊ながら、神社を継いで地域の方々と共に力を合わせて地域発展のため、尽力している弟。
本当に、ありがとう。

バカな兄ちゃん、東京でフラフラしながら、頑張ってます。
ところで、今日の世界柔道選手権48キロ級で優勝した、浅見八瑠奈さん。
弟が教員をしている新田高校卒業。そして、彼女のお父さんが筑波大学の柔道部で、私は筑波大学の野球部。2、3年後輩にあたります。愛媛県人会などで良くお酒を飲んだ仲。
そして、その浅見選手のお父さんは、弟と同じ新田高校の体育の先生。

なにやら、良いことが起こりました。
しかも、弟の誕生日に!!

今日は、朝の8時から夕方5時まで操体。
三浦先生がもうフラフラになるまで、講義をされ、2日後には、スペインに発たれます。
操体の臨床もさることながら、伝道師になれというのが、故橋本先生の遺言。となれば、我々のつぎなるステップは海外での伝導も活動の中の一つ。

機が熟したなら、私もいつでも行ける、そんな気概は持っています。
ただ今は、しっかりと静かな汗をかき、努力あるのみ。

今日は、写本なしで、これまで、では ごきげんよう!

2010/09/11

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p53〜54)

早速、写本を致します。

     興奮したら耳アカをとれ

二三日前の新聞にこんなことが出ていました。
腹が立った時は、マッチの棒で耳アカをとるんだという。
棒の先に綿なんかつけないで、ただこうやって耳アカをとるようにすると、怒らなくてすむんですって。

こりゃあ、うまいことを考えたなあ、と私は感心したんですよ。それで、私の所に出入りしている若い連中をつかまえては、これはどういうわけだかわかるか、と聞いてみたんだが、みんな首をかしげている。
息子に聞いてみたらすぐ分かった。息子は医者だからね。

何故かというと、耳の穴の皮膚の下の方には迷走神経が来ている。迷走神経というのは、刺激すると咳が出たり、クシャミが出たり、水っぱなが出たりすることがある。

あなたがたは、自律神経失調症という病名を聞いたことがあると思うが、その自律神経というのには、交感神経と副交感神経との二種類があり、片方が興奮すると、もう一方が抑制という働きがある。
どんな内臓にもこの両方の神経がかよっていて、お互いのその拮抗作用でバランスを保つようになっているんです。
そしてこのバランスがくずれると自律神経失調症という病名を頂戴するというわけです。

そういうことで、実はこの迷走神経は副交感神経なんです。
交感神経が興奮してカッカとしているところへ、副交感神経である迷走神経を刺激すると、次第に興奮がおさまってくるというわけです。
ついでに言うと、男性より女性のからだの方が交感神経が興奮しやすく出来ています。
まあ、だらしないダンナに腹が立ったら、ダンナだって外で疲れてるんだから、ヒステリックにわめきたてるより、ちょっとマッチの棒で耳をつついてごらんなさい、いつのまにか怒りがおさまっているからー。

そしてね、この交感神経というのは昼間にうんと働くもんだから、夜寝ている時は副交感神経がはたらく。寝るとからだがやすまるのはそういうふうになっているからです。

<ちなみに、迷走神経は延髄から出て、頸静脈孔という頭蓋の底にある穴を下って、胸部内臓(心臓、肺、食道など)、腹部内臓(胃、小腸、結腸前半、肝臓、脾臓、膵臓、腎臓など)に至る副交感神経です。
体幹を迷走するように回っているので、この名前がついたようです。
ということは、耳は非常にからだに影響を及ぼすところなんですね。
発生学的にも、外胚葉と内胚葉とが細長く、耳とおへそに当たる2点を中心にゆっくり内に渦巻くように人間のからだは形成されていきます。
この様子だけからも、おへそと耳が大事なことがよくわかります。耳、喉、口、舌、目などは感覚を司る大事な器官。おへそは先天の精をいただく命綱。
耳にピアスをして、失明した事例もあります。へそピアスなんて、からだにはよくないでしょうね。>
きょうは、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/10

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p51〜52)

      叱るより誉める

教育でもね、子供を叱ってはダメだ。もちろん悪いことは悪いんだから、そこのところはちゃんとおさえておいて、そこをガンガン叱るじゃなくて、その子の全体を見ていてね、何でもいいから少しでも良いことがあたらそれを誉めてやる。

そうすると、今まで悪かった所がパアーととれてくる。
我々みたいに年くっても誉められれば気持ちいいし、悪い気はしないが、子供は特にそうみたいですね。
とにかく認められたいという本能は我々以上に強い。

「お前なあ、これさえうまくやれば、何でもうまくやれる奴なんだけどなあ」
などとポンと一つやっとけば、パッととれる時がある。

それをね、悪い所ばかり見つけてガミガミ言われたら、それでも治ることもあろうが、時間はかかるし、お互いに面白くも楽しくもない。
痛い腕を無理やり痛い方へ曲げて、お互いがウンウン苦しんで汗流して、それでも治ればいいが、下手すると永久に元に戻らなくなる、そんな治療と同じだって気がする。

子供が悪いことを知らないでやっているんなら、やっぱりそこは指摘して、それが本人の将来に、本人のからだにどう良くないのか教えてやらねばなるまいが、それを無理やりにね、上から押し込むんじゃなしに、悪いということは、チャンと何らかの形で子供自身の上に現れているんだから、まずそれに気づかせてやる。
それだけでもう半分は治ったも同然で、あとはそこをガミガミと注意し叱るんじゃなしに、子供がそこから逃げれるように、悪い方から良い方へ、気持ち悪い方から気持ち良い方へと気持ちが向くように手助けしてやることだ。

うまいもん食いたかったら、女房の料理を誉めればよい。
うまかった時はどんどん誉める。
「いやー、今日のはうまいなあー、特別にうまいなあー」ってね。するとね、やっぱり女房だって悪い気しないから、この次にも何んとかうまいものを食わせてあげよう、と思ってね、いつもとはいかんでも、少なくともそういう努力を惜しまなくなるだろう。

そりゃそうですよね。誰だって自分の欠点を言われて気持ちの良いものはいない。
自分がその欠点に気づいていればいるほど、他人からそれを指摘され、どなられるとシャクにさわる。
かえって気が滅入ってきて、それを治そうという気分がそれるばかりか、相手が憎らしくなる。

欠点は欠点で、それをお互いに知っていることは必要だけれども、そこにとどまっていたんじゃ、世の中楽しくも明るくもない。
だから、何か良い所見つけなくっちゃ。人のアラ探しするよりも、何か良いところを見つけた方が、見つけた当人も気持ちがいいし、された方も気持ちがいいですよね。
要するに“気持ちがいい”ってことさ。

<身につまされる節です。個人的に・・・私は10年前に女房と分かれました。料理が美味しかったって、言ったことが無かったように思います。あえて、女房の方から「どういたしまして」と言ってくるぐらいでした。そして「あ、あ〜美味しかった」何というダンナだったのでしょう。
女房は一番近い他人であったことを、いつの間にか、忘れていった・・・・本当にダメなダンナだったのです。

女房にこそ、やさしいやさしい言葉がけが必要であることを、今、痛切に感じています。
私の言葉がけが足りなかったばっかりに、可愛い子供3人には、辛い思いをさせてしまったのです。
本当に申し訳ありませんでした。>


今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/09

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p49〜50)

今日は、早速写本に入りましょう。

NHKでもラジオやテレビで体操やっているがあの中で
上体を右に倒したり、左に倒したりする運動がありますね。
あの動きで、右の方に上体を倒す時には、腰をまっすぐにして上体だけを右に倒すというふうに皆考えている。
また、そういうふうに指導もしているらしいが、あんな姿勢でうんと右の方へ倒すとからだを壊してしまう。
右に上体を倒す時には、左足に重心を置き、腰を左に移しながら倒すと、スウーとラクに倒れるんです。
こういうことを誰も言わない。体操の先生方が知らないんだ。

<私は、毎日フィットネスクラブに通っていますが、この当たり前の法則を知らないで、インストラクターが指導しているのは分かります。ただインストラクターの勉強意欲は充分感じられますので、いずれこの自然法則を理解する日は来るでしょう>

たったそれ一つだけでも知らないために、体育大学の学生は全部ケガをしている。体育大学に入ってケガをしてない学生っていうのはまあいないね。
とにかく無理をする。からだを動かすのにもそういう自然の法則があるということを誰も教えてくれないものだから、ただ一生懸命無理な動きをして、それを鍛錬だと思っている。
これではケガするわけですよ。

マラソンなんかでも、あの君原という選手などは、走っているうちに横腹が痛くなるらしい。
どこか走り方に無理があるんだろうね。
チャンとわけがあって痛くなるんだから、もうちょっとからだのことを知らなくっちゃ。
昔は今のオリンピックのマラソン走者よりももっと速く走る人がいくらでもいたらしい。
日本の忍者なんてのは、一晩のうちに江戸から京都まで行ったというんだから。まさかとは思うけど、とにかくすばらしく速く走った者がいたらしい。走り方のコツを知っていたんだ、きっと。

忍者のことはともかく、昔から名人といわれた人たちは皆、鋭い勘でこの辺のコツをつかんでいて、自分のからだを上手に使ったんだろうと思います。だから何をやっても能率よくコトが運べたんでしょう。
<茶道は、シンプルに無理のない所作を理にかなった形に表しています。この所作が、日常生活を営むうえでの基本となります。あらゆることが集約された世界。
今こそ、日本の遺物を再考する時!!>
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/08

明日、実技試験があるため、今日は短く修めます。

早速、写本。

人間のからだは、ちょうど簡単な家屋構造に譬えられる、と私は思っております。家屋の基礎構造、つまり、四つの土台の上に四本の柱を立て、その上に枠(ワク)を組み、屋根を合掌で組み合わせて、中央を棟で結び、そこに天井を張る。
この屋根裏に内蔵をセットし、棟木を背骨と考えて、これに頭と尾をつければ、四つ足のケダモノで、このケダモノが後ろ足で立ち上がったものが人間である、と。

しかも、人間ーこの動く建物ーは動きます。そしてこの構造からも分かるように、どこか一ヶ所が動けば、それに連続する他の所も必ず動くように出来ていて、これを同時相関連動性というが、その動き方にチャンと法則がある。
その法則を見ていない、というわけです。

例えば、右の手で、自分のからだの前のものを拾う時には、右の足を出して拾うと拾いにくいんです。
左の足を出して拾うと拾いやすい。そういうふうにチャンと出来ているんだ。出来ているということは、そういうように自然の法則があるということです。

<人間を動く建物と考える発想は、日本人ならではだと思います。壁を土台のようにして作る西洋的な考えでは、思い浮かばないでしょう。また、土壁は皮膚。土自体は、地球の皮膚。日本家屋は、それだけで生命体の象徴なのです。>
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/07

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p47〜48)

昨日のフィトネスクラブで、からだの歪みを診てもらいました。
ブルーの垂直・水平線を5センチ刻み交差した白い壁を背に、私は両手を挙上して長い棒をにぎってスクワット。
その動作を、今度は横を向き2回ほどスクワット。
何やらぎこちない動き。
そのパフォーマンスを録画再生して、インストラクターと一緒に見ながら、2つの指摘をいただきました。

1:右の広背筋の方が大きく、やや緊張気味。
2:足首が軟らかくないので、腰が踵まで下がらない。

1の原因は、高校、大学とやっていた野球のせいです。右利きのため、ボールを右腕ばかり使って投げていました(野球をやっていると、当たり前ですが、考えて見るとからだのバランスを崩す動作ですね)。
そのため、両手を挙上すると、左上肢はぴたりと耳にくっつくのですが、右上肢は20センチほど空間が出来てしまいます。

そこで、その歪みを取る方法。
①立位の状態で、ゆっくりと左に側屈しその後ゆっくり前屈。
②立位の状態で、ゆっくりと左に側屈しその後ゆっくり後屈。
③四つん這いになり、おへそを見るように背中を丸め、肩甲骨間を広げ、一気に急速瞬間脱力。
これって、操体です。
このフィトネスクラブは9月から、この歪み矯正プログラムを始めたのですが、操体を導入しているようです。

とにかくこの①②③の動きなら、もうお得意です!
おっと、それからもうひとつ。
④足首を軟らかくする動作。直径15センチ程の円柱を縦割りにし、円弧を下、平面を上にします。
その平面の部分に立って、両手で長い棒を支えにして、ゆっくり足関節を背屈・底屈。

これらの動作を10分ばかりゆっくり味わいながらやりました。
すると、見事に腰が踵までつくスクワットが出来、右手は耳までくっつくように・・・・インストラクターの驚いた顔は何やら愉快でした。

それにしても、インストラクターにいわれる前に、このような操法を自分に課せていないことを、痛く反省した次第です。
また、このような大きな企業が、歪みの矯正に乗り出したことは、我々プロとしては、脅威です。

多くの引き出しを持つよう、精進精進!!
では、写本。
        名人というものは

今まで生きて来た私たちの先輩たちの中でも、名人っていわれるような人は、やはりからだの動きを知っていたと思うんです。
それをコツというか、勘(原始感覚)といおうか、そいうもので知っていたので、それを説明することができなかっただけなんですよ。

しかし、私は多少なりとも皆さんに申し挙げることができると思う。
それは、そんなに難しいことではありません。
手が二本あって足が二本ある。まん中に胴体があって、そのてっぺんに頭がついている。
例えば、物を拾う時にはね、もちろんどっちの手で拾ってもかまわないけど、まあギッチョでない限り右手を使うと、右手ばかり使っていると、やはり基礎構造が捻れてしまう。
そんなにひどくなくてもね。

野球でも左バッターもいるし右バッターもいる。左投手も右投手もいるというふうに、偏ったからだの使い方で、基礎構造が多少ともくずれてくる。
くずれても、それが元に戻る範囲であれば問題はないが、あんまり曲がり過ぎたり、捻り過ぎたりすると調子が悪くなってくる。

こういうことは、東洋医学でもよくわかっていた。それがどういうふうに捻れると、どういう病気になるかっていうことも大体分かっていた。
ところがね、一番肝心の動き方の法則というようなことを書いてないんです。

今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/06

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p46〜47)

私の母親は、驚く程の少食。
しかも、弟夫婦と生活し、お嫁さんが中学校の家庭科の先生をしていたとあって、料理上手で健康管理上手。
そんな訳で、母親は78才になっても、寝込んだことはありません。
いつも笑顔を絶やさない母親をイメージしていると、それだけで元気になります。
この笑顔と少食=健康生活の基だと私は、確信しているのです。

私は、甲田光雄先生の本を読み、午前中は固形物を入れず、水分だけを取り、午後軽い食事。夕食はこれまた、ビールと焼酎の水割りと軽い食事。間食はほとんどしません。
お陰で、体脂肪率11,3%。適正目標値は10〜20%ですからバッチリ!
それでは、写本に入ります。

私はうちに来る患者さんに「うまいものを食い過ぎるな」と口をすっぱくして言いますが、とにかく今は何でもかんでも手軽に手に入るようになったから、毎日毎日がご馳走です。
とくに動物食は栄養価が高いとばかり、どんどん食べる。
確かに動物性タンパクはいいものには違いないが、良ければ多く食べるのがからだに良い、と考えるところに大きなワナがある。
いくら良い薬も適量を超すと毒になる、ということです。

人間には全部で二十八本の歯があるが、肉食用の歯は犬歯、糸切り歯の計四本、すなわち全歯中の七分の一にすぎません。
野菜用の前歯は八本、雑穀および堅果類用の臼歯は十六本。
この歯の種類と数に注目してください。
これに比例させるように食べ物をとっていくことが、最も人間に合った食生活だといえるのではないでしょうか。
肉を食べたら、その七倍の野菜はご飯をとる。
肉ばかり食べて野菜やごはんはチョッピリというのではからだを壊してしまいます。

私の所へ運動選手などもよく来るが、揃いも揃ってからだが固い。こういう人たちはみんな肉の食べ過ぎだ。
いくら運動してからだをきたえたって、自分のからだを壊すような食事を一方でやっていたんでは何にもならない。

<この歯と食事の関係は、マクロビオティックの創始者・
桜沢如一先生の思想を有難く頂戴したものだと思います。
この先生の簡単な紹介をいたしましょう。

桜沢如一先生は、京都府出身の食養家で、マクロビオティックの創始者です。
海外では、ジョージ・オーサワというペンネームでその名を広く知られています。
1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、
アルベルト・シュバイツァー博士の元で、死亡率100%とされる熱帯性潰瘍に自らかかり、
医薬を用いずにマクロビオティック理論を実践して食事療法だけで治してみせたそうです。

マクロビオティックという言葉は、古代ギリシャ語が語源であり、
西洋医学の父・ヒポクラテスが唱えたマクロビオスに由来します。
macro=偉大な、bio=生命、tic=学術という三つからなる造語で、
大いなる宇宙や自然の在り方に適応するための生活術を意味します。
現在では、日本古来の食養生と中国の易の陰陽を融合した食事療法の名称として用いられています。

明治時代に軍医・医師・薬剤師の石塚左玄先生が食事療法としての玄米菜食を最初に体系化し、
その弟子である桜沢如一先生がマクロビオティックという名称を用いて世界中に広めました。
その教えは、大森英桜先生、久司道夫先生などに引き継がれてさらに発展していきました。

マドンナ、シャロン・ストーン、ニコール・キッドマン、マイケル・ジャクソン、
ジョン・レノン、アル・カポネ、トムー・クルーズ、グウィネス・パルトロウ、
クリントン元大統領、カーター元大統領、坂本龍一さん、忌野清志郎さんなどの
多くの有名人が実践している事で世界的に脚光を浴び、日本に逆輸入されてきました。

人間の歯は全部で32本あり、臼歯が20本、切歯が8本、犬歯が4本という割合です。
臼歯は主に穀物をすり潰すための歯、切歯は野菜類を切るための歯、
犬歯は肉や魚を食いちぎるための歯であると考えられます。
歯の構成を見ると、人間は穀食動物であると推測する事ができます。

マクロビオティックの基盤は、無双原理です。
無双原理の根本は、遠心力の陰と求心力の陽です。
森羅万象が陰と陽の力で成り立っていると考えられています。

【陰と陽の四つの法則】
①陰と陽は互いに引き合う。
②陰と陰、陽と陽は反発し合う。
③大きな陰は小さな陰を、大きな陽は小さな陽を引き付ける。
④陰極まれば陽、陽極まれば陰に転じる。

人間、牛、豚、鶏、魚などの動物は陽性で、植物は陰性という事になるようです。
陽性の人間と陰性の植物は互いに引き合いますが、陽性な人間は陽性な動物とは反発し合います。
人間が同じ赤い血の動物を食べると、体の中で反発が起こり、それが病気という形で現れます。
つまり、人間は植物を食べるのが自然だという事であり、これが菜食主義の原点なのです。>
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/05

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p46)

昨日は、京都の猛暑を体感してきました。
台風9号が南から運んでくる熱風と強い日差しで、頭はクラクラ。
暑さに怒りを通り越して、も〜〜笑うしかありませんでした。(京田辺市では39,9度!!!)

こんな時は、船岡温泉が一番。
大正12年にでき、欄間やタイル(私が2ヶ月滞在して、作品をつくったスペイン・マジョルカ島が原産)が有名で、文化財の指定を受けているそうです。

410円でサウナ、檜風呂、露天風呂等あるのですから、贅沢です。
外国人用のガイドブックには、この温泉がしっかりと紹介されているのでしょう。必ずと言っていいほど、外国人はいます。
昨日は、フランス人。
英語を嫌うフランス人とは、あまり会話をしたくないので、極力会わないように、お風呂を移動するのですが、なぜかよく会う。
まあ〜そうゆうときは、ニッコリ笑顔。

それにしても、老若男女・洋の東西問わず集まる場所というのは、パワーがあります。
私の治療所の理想形です。
ガンバロ〜っと。

では 写本。

とにかくね、食べ物は自分で創って、それですべてを賄うわかにはいかないから、結局は買って食べることになる。
買うものがおれば売るものがいる。
そうすると、売る方からしてみれば、良い物を作って売るということもさながら、いかに儲けるかということの方へ気が移って、そこに人間の悪知恵が働く。
安い物をいかにして高く売るか、汚いものをいかにきれいに見せるか、そしてなるべく腐らないようにと、防腐剤を入れたり、ワックスぬったり、ビニールでくるんだりする。

ごまかして金儲けてやれ、とばかりにいろいろ細工されると、売る方は儲かるかもしれないが、買う方はいい迷惑で、直接に被害を受けるわけです。
売る方にしたってまわりまわって自分におぶさってくるとは考えもしないんだ。
手間は大きくなる一方だし、工賃は上がるしで、結局は自分が自分の首を締めることになってるんだけども。

<この節を写していると、美山のおばさん達の顔が浮かんできます。70才後半の独居老人。
朝早くから、畑を耕しそれはそれは、立派な野菜を作ります。もちろん、無農薬。
ド素人の私なんぞ、戴くのが専門。おばさん達も一人では食べきれないのです。
隣の集落には、無人販売の新鮮野菜受け渡し場があり、100円で、無農薬新鮮野菜が買えるのです。
たまったお金を使って、みんなで温泉旅行に行くそうですよ。
まあ〜野菜作りのプロが競い合っている中で、おとなしくありがたく野菜を戴くって・・・ホントに贅沢な生活だったのですね〜>

今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/03

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p45〜46)

まだまだ暑い日が続きますが、汗かく気持ち良さを教えてもらった夏、と思うようにしています。

現在、午後の4時。パンツ1枚で脇の下から汗を垂らし、パソコンに向かっています。おそらく室内は、32度程度。時折、流れてくる風に少しだけ秋を感じます。
真っ裸になって、28度が人間にとって一番快適な温度だそうです。そんなときは、汗もかかず、冷えも感じないはず。

あれれ・・今吹いてきた風で、脇の下からの汗も引いてきたようです。これから、夜に向かいもっともっと良い風が吹いてくる予感・・・

こんな生活が出来ていることに感謝します。
京都・美山町の自然に馴染んだからだが、都会のど真ん中でも、汗という手段を通して、自然児を創りだしてくれてます。

ホントに有り難いことです。
さて、それでは写本。

更には、昔は一日しかもたなかったものが、一週間置いても腐らないように加工して売り出されている。
昔の醤油はすぐにカビがはえたけれども、今はいつまで置いても大丈夫。あれはきっと防腐剤やらなにやらいろいろなものがいっぱい入っているんでしょうね。

だけども、やっぱり食べ物にも、その時間と空間の約束事があることを無視して、あんまり人間勝手に細工していたら、自分でつくった毒をのむといったようなバカなことをしでかすことにもなりかねない。もう現にそうなっている。

<3年前、美山町で生活しているときのことです。コンビニ生活とは無縁な場所です。ところが、車を飛ばして50分くらいすると、園部町にはコンビニがあります。
そこで、納豆巻きを買い、冷蔵庫に入れておりました。
それから経つこと、半年。
納豆巻きは冷蔵庫の隅に追いやられておりました。それに気づいて、手にした納豆巻きの美しいこと!
ご飯は、ピカピカ光り、納豆もそれはそれは、美味しそうでした・・・・

この時以来、コンビニでおにぎりを買えなくなってしまいました。
その反動が、東京での冷蔵庫無しの生活。
出来るだけ、スーパーという大きな冷蔵庫まで、歩いて食料を調達し、その日のうちに食べる。これは、まさしく都会における、原始生活>
今日は、ここまで、それでは ごきげんよう!
明日は、京都に出張のため、お休みします

2010/09/02

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p45〜46)

大徳寺での「東京操体フォーラム in 京都」が無事終了。
ホッとしている間もなく、来週から実技試験が始まります。
慌ただしい日々を再び送ることに・・・・・と思いきや、何故か落ち着いています。
(もっとも、今だけでしょうが・・・)

とにかく、積極的に生きていれば、運が付いてくると信じるようになり、開き直って生活しているようです。

この日記を付けることも、運を呼び込む要因かもしれません。

多くの人々に運をはこんでいる人に、私の友人であり、憧れの人である梅棹マヤオさんという方がおられます。
マヤオさんは、京都・美山町に居を構えて25〜6年。
20年前、私が美山で生活をするきっかけとなったのは、マヤオさんの存在です。
田舎生活を満喫しながら陶芸家としての活動をし、笑顔が素敵で温和な人柄は、様々な人々を引きつけます。

お父様は、2ヶ月前に亡くなられた梅棹忠夫先生。文化人類学の世界的な権威で、「文明の生態史観」は色眼鏡で見ていた歴史を、クリアーにしてくださる名著。グローバルな物の見方を教えて戴きました。
そんなお父様を持つマヤオさんですから、世界各国から友人が美山の山奥までやって来ます。
マヤオさんの奥様・美衣さんは、某大手ビール会社の社長秘書をしていた笑顔のすてきな料理の達人。

もうこのお二人の笑顔とおもてなし、そして、美山町で一番美しい茅葺き民家が、日本はもとより、世界各国から訪れる人々を魅了するのです。
美衣さんはお茶の名人でもあります。
ある時、「佐伯君もお茶をやったら?」と誘われ、いつの間にか、大徳寺・玉林院で羽織袴を着て、茶室案内係をするはめに・・・・

まあ〜そんなご縁がなり染めで、大徳寺・玉林院とお世話になるような間柄となりました。

月に2回、京都に通い、大徳寺・玉林院さんの茶室で施術をしている事って・・・・もしかして、もの凄い事!!

今回の「東京操体フォーラム in 京都」の準備をしながら、
ふと気づきました。そして、何度も、何度もマヤオさん・美衣さん・玉林院さんに「ありがとうございます」と言い続けたのです。

マヤオさん・美衣さん。来年は、三浦先生にお頼みしてご招待させて戴きます。
では、写本。

     うまいものを食い過ぎるな
食べ物は生命のもとだ。「食いものの恨みは恐い」などとよく言うが、誠にもっともなことだと思います。
しかし、物の食べ方にもチャンと法則がある、とさきほども言ったけれども、それをむしすれば、やっぱりからだの調子がおかしくなるということです。

例えば、動物はね、物を食べるのに、自分の行動範囲内の物しか食べない。一日のうちに行ってこれる範囲の物に限られる。
ところが、人間だけはそうじゃない。
船で、あるいは飛行機で外国の物を運んでくる。九州のドジョウがその日のうちに北海道で食べられる。又、一般に動物はその季節の物きりしか食べないが、人間だけは違う。
米や麦、芋類など貯蔵したり、塩や酢をつかって長く保つ工夫をし、ハウス栽培が盛んになって、一年中いちごや胡瓜が食べられるようになった。

<この本が出版されたのが、1978年(昭和53年)。おおよそ30年近く前です。高度成長期で世の中が大きく移り変わっていく時期でした。明治生まれで、2回の戦争を体験されておられる橋本先生が、食べ物の流通、保存法等に何かうさん臭いものを感じられるのは・・・やはり、原始感覚のなせる技・・・>
今日は、ここまで、では ごきげんよう!

2010/09/01

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p43〜44)

おはようございます。
今日は、朝からブログを書いていています。
本来なら、この時間帯、学校で勉強しているはずなのですが、臨時休校。
3年生の実技総合試験があるのです。
もう、昨日から学校はピリピリした緊張モード。白衣を着た3年生が、こわばった顔で往来しています。来年は、私もこの渦中にいるわけです。

とにかく、国家試験100%合格を目指す我が校。
夏休みを返上して、3年生の実技を鍛え上げ、その後の半年は、国家試験対策に当てているようです。
とんでもない学校に入学してしまったと思う反面、有難いなあ〜と、ニンマリしている私がいます。
というのも、この学校にいれば、私のようなものでも「何とか国家試験に受かる!」という光が見えて来るからです。

ニンマリついでに、私の人生に光が差し込んできている予感。

先日、20年前の職場の社長とお会いする機会があり、中村天風という偉人の話を伺いました。
名前だけは存じておりましたが、その人となりは知りませんでした。

社長の話から、中村天風氏は、生き神様と確信。
結核で余命数年と宣告され、世界中を駆け巡りエジプトのカイロで出会ったのが、インドのヨガの聖人カリアッパ師。
弟子入りし、ヒマラヤ山中で2年半修行し、天風哲学を作り上げました。その間に、病に囚われていた心を解放することで、結核という病を葬り去ったのです。

存在していることに感謝し、積極的に生きることを説くその生き方は、操体の創始者・橋本敬三先生と同じ。

この生き方こそ、運を呼び込むもの、私のブログにも運を吹き込みたいと思います。
それでは、写本。

呼吸と運動には、そのようにチャンと法則がある。この法則を知らないとケガをします。運動は息を呼きながらやる。吸う時には、運動神経が働きません。

剣道などでもスキを突かれる時、必ず吸う瞬間です。柔道にしても、この瞬間に技をきめられやすく、ギックリ腰も吸う時にやられやすい。
管楽器を奏する時、あるいはお経をあげたり、詩吟や歌をうたう時など、みな呼吸の法則に合ったやり方でないとうまくいきません。
よく「修養して腹をつくれ」と言うが、この「腹」も呼吸によって練れてきます。

私は患者さんたちに、毎晩眠る前に腹式深呼吸をするようにすすめています。夜寝る前に床の中でおやりなさい、と。

枕をはずして両手を当て、両膝を立てて軽く合わせます。その時、足先を少し内側に向け、爪先を軽く踏む気持ちになって、下腹をくぼませながら、できるだけ息を呼き切る。からだの中の息を全部呼き出すつもりで呼くのです。

そして、吸う時は下腹に吸うつもりで、ごく自然に吸ってください。これを毎晩床の上で十回くらいする習慣をつけるとよいのですが。

毎晩これを続けていますと、起きている時も、何か仕事をしている時も、いつの間にか腹に力が入っているようになり、落ち着きが出てきます。「腹」が練れてきた証拠です。

コツは呼き方にあります。とにかく充分に呼く。よく呼けば吸う方はひとりでに入る。吸う息のことに意を使うことはありません。
吸う息は素早く、呼く息は長く、です。

とにかくね、呼吸する時は背骨がみんな動いたら、内臓もみな影響うけるんです。呼吸の仕方一つでからだの中が変わり、人間が変わるということは、注目すべきことだと思います。

<からだと心を結ぶのが呼吸=息=生き、なのでしょうね。>
きょうは、ここまで、では ごきげんよう!

2010/08/31

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p42〜43)

無事、東京操体フォーラム in 京都は、終了いたしました。
参加人数は、初日38名、二日目42名。
大徳寺・玉林院の20畳で暑い中、熱い講演の二日間でした。
後日、少しずつその内容を書くことに致します。

その中で、不思議なことが起こりました。
故アンデイー・フグさんのお墓がこの大徳寺にはあります。
K1で一世を風靡したアンデイー・フグさんの親友が、我々操体の同門・平直行さんです。平さんは、総合格闘家の草分けで、人気漫画・グラップラー・バキのモデルでもあります。

その平さんが、「今日は、絶対アンデイーがここに来るから!」と何度も、何度も講演前から喋っておられました。

そして、講演が始まり30分位してもアンデイーのセコンドについたお話をしていました。
すると、ヒラヒラと一匹の蝶が、入って来ました。
すかさず平さんが、
「アンデイーが来た!」
私も、あの蝶を見た瞬間、平さんと同じ事を思いました。参加者の多くもそう思ったことでしょう。

その蝶は、何度も平さんの回りを飛び交い、庭に出ては、再び平さんの回りを楽しげに舞っていました。
何度かそれを繰り返し、お名残惜しそうに帰って行きました。

それ以来、蝶が尋ねて来ることはありませんでした。

ただただ、平さんに恐れ入ったのです・・・

それでは、写本に入りましょう。
息を呼く

今の民間療法でもね、気持ちのよい方法でなおしてくれる人ってあんまりいないようですね。
「痛いのがまんしろ、これくらいのこと何だね」
とか何とか言いながら、ボキンボキン、ジャリジャリ、チクリチクリ、だもの。これじゃまったく生きた心地しないよね。

そうじゃないんだ。自分が一番気持ちのいいようにしてもらえば治るんです。一番気持ちのいいようにということは、悪い方から良い方へ戻すことで、戻すのは実に気持ちのいいことなんですよ。

ところがね、これにもやり方の上手、下手があって、いくら気持ちの良い方に引っぱっていくといっても、あんまり気張ってエヤーとばかりにやったって、うまくいかない。
そうじゃなくてね、フワーと、水の中に浮かんでいる水草を引っぱってくるように、スウーと動かせばいいのです。
コースにさえのれればうまくゆくんだからー。

それもね、必ず息を呼きながらやるんだ。
息を呼きながら動かさないと、からだを壊してしまう。
この「息を呼く」ということにもね、ちゃんと法則があるのです。

例えば、けんかして、人をぶんなぐる時に、げんこつ振り上げて、息を吸いながらぶんなぐることは出来ない。出来たとしても、人を圧倒するほどの打撃を与えない。
やっぱり、コンチクショーとばかりに息呼きながらでなきゃ、力が入らない。

<大リーグのイチロー選手が、ボールを叩く瞬間の写真を、よく見ますが、必ず両頬をふくらませています。
私も、負けじとフィトネスクラブで、チェストプレスのマシンを使う時は、鏡を見ながら両頬をふくらませています。
さあ〜、これからフィトネスに行って来まあ〜〜す!>

今日は、ここまで、それでは、ごきげんよう!

追申:たにぐち書店の「からだの設計にミスはない」ではなく、柏樹社の本を写本し始めましたので、ページ数が変わりました。まあ〜内容は同じですので、どう〜て事ないんです。

2010/08/26

からだの設計にミスはない 写本なし

大徳寺での東京操体フォーラムin 京都の準備のため、あすから、30日(月)までは、この日記をお休みいたします。

今日も、その準備のため、あまり時間がありません。そのため、今回は、写本なしにいたします。ご了承ください。

フィットネスクラブで鼠頸部(ソケイブ)を少しずつ柔らかくしているのですが、柔らかくなっていくに従って、肩甲骨の可動域が増えているように思います。
脊柱を介して肩甲骨と骨盤は連動しているため、お互いが影響しあっているのがよく分かります。
この感覚をもっと実感でき、数値にでも置き換えることができる方法があれば、面白いと思っています。

機会があれば、インストラクターに伺ってみます。

今日は、短いですが、ここまで!
次回は、大徳寺でのフォーラムの様子をお伝えいたします。

2010/08/25

からだの設計にミスはない 写本(p53〜54)

今日から、専門学校の授業が再開されました。
約1ヶ月の夏休みを終えて、クラスメートの元気そうな笑顔を見ると、ホッとします。

フィットネスクラブで連日からだを鍛えていたため、「あっ、佐伯さん。元気そう!」とか、「若返ってる!」とか・・・

もう〜、おだてられると、木にスルスル上る方ですから、
「はっはっ、目指せ30代のからだよ!!」
まあ〜、言わなきゃいいものをついつい喋ってしまいます。
実際、30才代のからだには、半年程でなりそうな予感はします。
そうすると、気持ちの方も若返り、相乗効果。本当にこれからが、楽しみです。

今日は、フィットネスクラブの第三回目の体組成分析カルテの日。
これは素足で、あるマシーンにのり、両手でマシーンの
2つの棒状ハンドルをつかむだけで、身長、体重、筋肉量、体脂肪量、体脂肪率、等々からだの有り様を数値に置き換えてくれる優れもの。

これで顕著に分かったことは、バランスが良くなったことです。
最初のカルテでは、左上肢の筋肉の発達が高、に対して右上肢は標準。これは、高校、大学と野球で素振りをしたためです。
右バッターは、左手を主にバットを振ります。これを当時、毎日のようにしていたものだから、左右差が顕著になったのです。
また、このカルテでは、体幹は標準。両脚はやや低。

二回目のカルテ(2週間後)になると、両上肢は高。体幹は標準。両脚はやや低。

三回目の今日は、すべて標準になっていました。
確かに左右差がなくなり、足がしっかりしてきました。

わずか1ヶ月でこれほど顕著にからだが変化していくことに、静かな感動を覚えます。それでは、写本。

ふと気がついてみたら、敵をやっつけるためにつくった凶器で、自分がやられていることに気づいて大あわてだ。こんどは又、その方の対策も講じなければならなくなったってわけです。
これじゃもうイタチゴッコですね、ただただ忙しくて疲れるだけー。

薬なんかのまなくても、こっちが黴菌に対する抵抗力を回復しさえすれば病気は治る、ということに気がつかなくちゃなりません。そして、まず何んたって大切なことは、からだの
バランスを崩すような生活をしないということです。生活がまちがっていたら、あの息・食・動・想の法則にはずれていたら、まずその間違いを正すこと。生活の歪みさえ正せば、病気は自然に治ってくるんだ、ということです。

更に言えることは、自然(人間のからだを含めて)の動きというのは、みな、元に戻りたい本能をもっていて、ひとりでにそういう動作をしているのです。
だから、何もしなくっても、原始感覚の命ずるままに動いていたら、いつのまにか、治っていることだってある、ということです。

<生活を正す・・・・重い言葉>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/08/24

からだの設計にミスはない 写本(p52〜53)

今日は、東京操体フォーラムin京都の看板と講演される方々の名前を書くことができました、ありがとうございます。

昨日は、高校野球部の後輩にあたる方とお会いできました。
同じ監督、部長の教えを受けた仲間ということで、話もはずみ、楽しい一時でした。
今後とも、長いお付き合いができるようにしたいものです。

高校野球といえば、今年の興南高校の強さは圧倒的でした。
スポーツ新聞を読んでいると、夏の大会決勝戦で、1イニング7点以上を入れたのは、60年ぶりで、松山東高校以来、と出ていました。

この松山東高校が、私の母校。旧制松山中学、夏目漱石が赴任し、「坊ちゃん」の舞台となったところです。
正岡子規が野球を伝えた伝統校ではありますが、現在では、県予選ベスト8までいけば十分と言われる程度の力量。

60年前に、何故全国優勝できたかというと、戦後の教育改革により、松山中学から、松山一高へと改名。その当時、野球は強く、常に松山商業は好敵手。常に、県の決勝で相見えていたそうです。
ところがその強豪校が、合併することになり校名を松山東高等学校としました。昭和24年9月のことです。
まあ〜横浜高校と東海大相模が合併するような・・・そこまでは、いきませんが、当時とすれば、野球戦国史が大きく塗り代わる出来事だったようです。

そんなわけで、全国優勝が可能だったようです。
この優勝は、松山東高等学校の優勝であり、松山商業高校の優勝でもあるので、松山商業高校の優勝回数に含まれています。

さて、それでは写本を始めましょう。

薬というのは、確かに黴菌の繁殖をおさえる役割をもっているから、その黴菌をやっつけて、それから受ける害毒を少なくすることはできても、わたしたちのからだそのものが、その薬によって良くなるわけじゃない。
確かに黴菌は死ぬかもしれないが、同時に自分のからだにも害があり、のめばのんだ分だけからだが壊れていって、こっちの正体のほうまでころしていくということにもなる。

例えば、黴菌が百匹、攻めてきたとする。
その時にね、その中の六十匹をそこで殺せば、あとの四十匹がそこをかいくぐって入って来ても、こっちは大丈夫だという状況になっていればいいんで、敵を一匹でも入れまいとしてかかると、そりゃもう薬がいくらあったって足りやしない。全滅させるまえにこっちの方がぶっ倒れてしまう。

もともと、人間のからだは、少々の黴菌が入っても大丈夫のようにできているんだけれども、そのからだの基本構造が歪んで崩れてきているものだから、ちょっとの黴菌にもすぐやられてしまうことになるんだ。
やられて病気になるというと、人間はその黴菌の方にばかり気をとられて、そいつを如何にしてやっつけるか、ということに頭をしぼる。
そのことに対しては、あれやこれや、あらゆる方策を考え、実行しようとするが、一番肝心のからだのバランスが崩れていることには目を向けようとしない。
いくら最上の方策・作戦を巧みに展開して敵をやっつけてたとしても。敵の数は無制限だ。
次から次と、いろいろな敵があらゆる方向から攻めてくる。やっつけもやっつけてもきりがない。

<橋本先生は、西洋医です。しかし、東洋医学、民間療法を研究され、西洋医学の根本的な間違いを平易な文体で書いておられますが、まさに真理を諭されていると思います。
昨日もいいましたが、フィットネスクラブに通いはじめ、からだの歪みがとれてくると、気になっていた、頬のたるみが徐々に回復してきました。
美容外科では、頭部の皮膚を持ち上げ、頬のたるみをとるかもしれません。

そんな必要はないのですね、暑い夏は気持ちのいい汗をかき、全身を無理なく気持ちよく動かしていれば、いつの間にか、頬のたるみなんてとれてくるのです。
頬のたるみは、単なるサイレン。全身の歪みを気持ちよく取っていくと、サイレンの音が小さくなるのです。>

今日はここまで、
明日からは、専門学校が始まります。そのため、夜にこの日記を書くことになります。写本の量は少なくなり、一日の出来事を多く書くようになると思いますが、お付き合いの程、宜しくお願いいたします。
では、ごきげんよう!

2010/08/23

からだの設計にミスはない 写本(p51〜52)

身の回りの整理が出来てありがとうございます。
まだまだ暑い日が続きますが、暑い日には汗をかき新陳代謝を良くして、しっかり水分を補給すれば、快適!

何とか、エアコン、扇風機なしでやれています。
これも、フィットネスクラブで連日ストレッチを中心に、無理のない体力づくりに励んでいるからだと思います。

正直にいいますと、この数ヶ月精神的にへこんでいたのです。
そのためか、血圧が上がり、腰痛を1ヶ月煩うという今までに経験したことのない状況だったのですが、隣人の勧めで
フィットネスクラブに通い始め、精神的なへこみが、汗と共に流れていきました。

そうなると、同時相関相補性。皮膚につやが戻ってきます。どうも、心とからだの有り様を示しているのは、皮膚のように思います。

まもなく、たにぐち書店から、我が師匠・三浦寛先生の操体臨床の要妙パート2が出版されます。
この内容は、操体臨床の皮膚へのアプローチです。

三浦先生の17年間に及ぶ皮膚の研究の集大成。
と思いきや、パート3,4,5があるそうです!!
今後の操体を導く教本になることは、間違いありません。

それでは、写本に入ります。今日の内容は、エリマトーデスという、皮膚の病気を持った女性のお話。

  まず生活のバランスを

いつだったか、エリマトーデス(紅斑性狼搜瘡)の女性が受診に来た時、その人の生活ぶりを聞いて、ほんとうに、びっくりしてしまった。何せ、香の物だろうが何だろうが、何でもかんでも砂糖をぶっかけて食べる。チョコレートは大好き、
紅茶、コーヒーはどんどん砂糖を入れて飲む。肉や魚は多食し、ウズラの卵は日に十個は欠かさない・・・。

手足の皮が赤むけして、物はつかめず、歩けずで、大学病院に何年もかかってきたと言うが、こんな食生活をやってたことには、どんな薬のんだって、どんな治療したって治りっこないよね。

私はまずこの人に、例の如く、からだの基礎構造の歪みを調整した上で、あの四つの基本行動、息・食・動・想の自然法則を説明して、実行するようにすすめましたら、四回も来たでしょうか、すっかりよくなって、これには大学病院の方が驚いちゃって、「大変いいことだが、何でなんかわからない」と言っていたそうです。

とにかくね、たいていの人がそうだが、病気にかかると、すぐに医者に行って、注射をうってもらい、薬をふんだんにもらう。そうしなきゃ病気というものは治らないかのように皆思い込んでいるようだが、そうじゃない。

<以前にも書きましたが、このエリマトーデス(紅斑性狼搜瘡)の患者さんの例の如く現代医学では、多くの病気が原因不明です。
私は、薬を基本的には毒であると思っています。症状をおさえるだけの手段。息・食・動・想の毎日の生活のあり方を、今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。>


今日はここまで、それでは、ごきげんよう!

2010/08/18

からだの設計にミスはない 写本(p48〜50)

今日は、甥っ子が愛媛からやって来ます。
ところが、甥っ子、ケイタイを忘れてしまい、公衆電話から今さっき連絡がありました。
それでは、これからハチ公前に向かえにいきます。

甥っ子に東京案内できてありがとうございます。

息・食・動・想

文明ってね、人間がうまいことを考えて、いかにも便利になったが、どうもそこには自然の法則と合わないことがたくさんある。

生命体であるかぎり、自然環境に適応するように出来ているはずであるが、人間は他の動物と違って、知識にたよって判断しようとするので、どうしてもその生活のあり方が自然の法則にはずれやすいともいえる。

人間が生命活動を全うして生きていく様は非常に多面的なものであるが、自分に許された自然環境及び人為環境の中で適応し、自己責任として意識して営まねばならぬこと、絶対に他人に代わってもらうことの出来ない活動が少なくとも四つあると思う。

すなわち、呼吸、飲食、身体運動、精神活動(息・食・動・想)。

この四つの活動と環境との関連の上に人間の健康が維持されていく。言い換えれば、毎日の自分の生活が自分のからだをつくっているということなのであり、毎日の生活のあり方、つまり、一人一人のこの活動の営み方によって、各人のからだのあり方、健康状態がきまってくるということです。

だとすれば。私たちの生活をより健康で幸福なものにするには、この四つの活動の一つ一つをより深めていかねばならないが、それと同時に、これらはお互いに関連し合っていて、どれ一つ不十分でも健康といえません。

環境と生活態度とは同時相関相補的に連動しているのだ、ということを肝に銘じておかねばならないのです。
たとえ、からだを正常に動かしても、偏食したり呼吸が浅かったとしたら、やっぱり病気にもなりますし、無理な労働をしてからだに歪みが出来れば、たとえ、他の活動をいくら念入りにしようが病気になる、ということです。

故に一つ一つの営みの自然法則を究めて、それらを明らかにすること、そしてそれらを総合した全体的な目で生活のあり方を検討しなおしてみること、私たちが健康で気持ちよく生きていく上で、このことは常に心しておかねばならないでしょう。

私もこの「息食動想」について、個々に、あるいは全体的に考え続けてきましたが、今はっきり言えることは、個々の健康法に関しては昔からそれぞれの人々が開発してきているが、総合的アイデアが今までに完成していなかった、ということなんですね。
このことについては後章でくわしく述べるつもりです。

<この「息食動想」における自然法則は環境と対応し、同時相関相補的に連動するという思想は橋本哲学の基礎です。
この4つの自己責任の営みをそれぞれ及第点そして、環境も及第点ならば、健康な生活が送れるということです。
そして、医療従事者はそれぞれにおいて、高い得点が要求されることは言うまでもありません。切磋琢磨すべし!>

今日は、ここまで、あすから出張ですので、23日(月曜日)から日記は再開いたします。
それではごきげんよう!

2010/08/17

からだの設計にミスはない 写本(p46〜48)

今日は、トイレ掃除が出来ました、ありがとうございます。

さて、昨日は“救い”についての写本でしたが、今日は“報い”についての写本になります。

“救い”と “報い”

自分のそうした思わくや行為は必ず報いられて、自分の上に遅かれ早かれ現れてくる。この地上に私たちが生きている限り、私たちは“報い”を避けることはできない。
この世は因果応報の世界なのだーと。

自分のやったことは、いずれそれなりに必ず報いられるということ、これは言い換えれば、神は人間に無限の可能性をお与え下さった、ということです。
欲望が大きければ大きいほど、その可能性の奥行きは広く深くなるということです。

自分の行為次第で、どんなにでも現れてくる。例えば、人間が本当の自然法則を知らされたとしても、それをとるかとらないか、選ぶか捨てるかは全く本人の自由である。
その自由を人間はある時期にかちとってしまった。失楽園ですね。
そのために悩んで苦しんで、法則に従えばラクラク生きていけるものを、やたらに反発するからバチがあたる。

私はこれもしょうがないことだと思う。この世は“報い”の世界なんだからー。ただ、どっちを選ぶということで、その選択の仕方で“報い”が変わる、ということだけは知っておく必要があると想いますけどね。

—この“救い”と“報い”を端的に言うなら、“救い”は絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何者もくつがえすことのできない久遠の真理である。
“報い”は現世における歩み方の努力に対する相対的評価である、と言えるでしょうか。

いずれにしても、この“救い”と“報い”に対するはっきりとした自覚は、自分を如何に解放してくれたことか。
あれほど神経質で潔癖であった私が、あの時以来、俄然のん気になり、すっかりルーズになった。

何やったって大丈夫だ、俺がその報いをうければいいんだからー女郎買いやら道楽やらを平気でやれるようになったのも、実はこの時からなんです。それがまあ、女房を苦しめたなんていうことになりゃ、何ともシマらない話だけどもね。

<20数年前にこの一節を読んだ時、あまり理解出来ていなかったように思います。
しかし、今になってある程度はわかってきました。現世にいきている以上、「自分のやったことは、いずれそれなりに必ず報いられるということ、これは言い換えれば、神は人間に無限の可能性をお与え下さった、ということです。
欲望が大きければ大きいほど、その可能性の奥行きは広く深くなるということです。」
を心に抱き、大きくはばたきたいものです。>

今日は、ここまで、それではごきげんよう!

2010/08/16

からだの設計にミスはない 写本(p41〜46)


“救い”までを写本することが、できましたありがとうございます。
昨日は、ラストサムライと呼ばれておられる島津健治先生の火縄銃演舞を見てきました。古武道の全国大会でトリを演じられ、マイクで火縄銃の説明をとうとうとされるそのお姿は、まさしくラストサムライ。
この先生は、古来から伝わる武士の医術の伝道者。
すごい技術をお持ちです。
我々は学ばねばならない事が山積みなんです!

今日の写本は少し長め。
橋本先生の若き日の苦悩の末、“救い”と“報い”の違いをつかみ取った、言わば橋本哲学の根底を描いた箇所です。
今日は、その中の“救い”について写本いたします。

    “救い”と“報い”

人間の設計にミスはない、と私はしんじているが、これは又、私たちはもともと救われているんだ、初めから救われているんだ、ということでもあります。

宗教家の中にはね、がんばれ、がんばれ、そうして悟ればお前は救われるんだと、あたかもがんばらなければ救われないかのように言う人がいるが、そんなことはないんですよ。

悪人であろうが、怠け者であろうが、みな救われているんです。それでなきゃ、私なんぞは浮かばれない。
私はだから、いつも患者さんに言うんだ。
「もともと救われているんだから、安心してやりなさいよ」とね。
そして同時に
「いやなら無理しなくてやらなくてもいいよ」と言う。
「そのかわり、ひどい目にあっても知らないよ」と。
少々強迫じみて聞こえもしようが、こういうことを、私は若い頃から常に自分に言い聞かせ、自分自身に問いかけながら、今まで生きてきたのです。

私は中学時代を会津の伯父の家に厄介になってすごしたが、中学の後半の頃から猛烈な自己嫌悪と劣等感に悩まされた。
四年生の時だったか、弁論大会で「飢え渇く」という演題で一等になり、その時の賞品の硯函が今の手元に残っていて結構役だっているが、その演題の如く、私はその頃、苦悩の底で喘いでいたんです。

ある日、教会で山室軍平先生の講演会があり、友だちに誘われて聴講した。先生の最も得意な十八番「神は愛なり」という説教でありました。万有を創造し、生命を発現して、われら人類を生んだ神の愛というものは、無我の親心の慈愛そのものである、という理を、年老いて捨てられにゆく老母が、背中の上から息子の帰路の道しるべに木の枝を折って来たという、楢山節考のような話を引いて、この親心こそ神の愛なのだ、生命の生みの親を忘れた人々よ、忘れられても忘れぬ親の愛を覚えて神に立ち帰れ、というような趣旨の話でした。
先生の名調子にすっかり感激させられて、聴いているうちに涙がとめどもなく流れたのをおぼえております。

傍らで大嫌いな数学の教師が冷たい視線を眼鏡の下から注いでいるのを意識しながらも、「神の愛を信じる人は、手を挙げてください」と言われた時、私はどうしても挙げないではおれませんでした。
そのくせ、終わってから「手を挙げた人は残ってください」と言われた時には、草履をつかんで一目散に逃げて帰ったものです。

それでも妙なもので、このことが縁になって、いつの間にか救世軍に出入りするようになりました。
高校受験の浪人時代に、大きなラッパを吹きながら辻説法に従った、仙台芭蕉の辻の夜のことを想い出します。

その頃の苦悩は深刻で飯も喉につかえて通らぬ日がたびたびありました。自己批判やら及第の不安やら、恋愛のことやらが、二重にも三重にもなって私を責め立て、宗教などどは無関係に平気でやりたいことをやっている人たちが羨ましかった。

当時の私にはすごく潔癖なところがあってね、特に「性」の問題は深刻だった。女を見て色情をおこす者は、すでに姦淫したことになる、なんて調子に責め立てられると、こっとはもう立つ瀬がない。
とにかく何としても“潔めの神理”、救世軍には“潔めの神理”というのがあって、それがわかれば罪を犯さないですむというので、私はもうガムシャラに、それをつかもうとあがいたものでした。

そんな苦悩は今でこそ笑ってこそすまされもしようが、その頃の私としては必死だったんです。それだけ若くて純粋だったのでしょうか。

祈っていてね、時には「ああ、わかった」と感じたこともあったし、パアーと水が溢れ出してきたような奇妙な体験もあったけれども、どうしてもそれが長続きしない。どうしても腹の底からわかったような気がしない。

自分が罪悪深重の凡夫であることはよくわかる。神の愛もわかる。キリストの贖罪もわかる。しかし私は、キリストを救主と信ずることによって、いったん赦されても、又ぞろ繰り返し罪を犯すことから脱け出せない。
懺悔しても悔いあらためても悔いあらためてもすぐ罪を犯す。
この生身の体をもち、五官の貪欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、どうしてもこれを制し切れないで、ついつい悪いとは知りながら負けてしまう。

こうなってくると、せっかくのキリストの贖罪も利益も屁にもならない。死ぬ時うまく信仰状態にあれば天国行きも可能かもしれないが、ちょうど罪を犯しつつクタバッたらそれこそ最後だ、天国行きはオジャンである。

何とか罪を犯さぬような救いをうけることは出来ないものか。
こうなりゃ誠に申し訳ない限りだが、神を呪って死んでも救われる道はないものか、などとヤケッパチな気分にもなったものでした。
こうして私は、行きつ戻りつ五年間苦しみ続けました。

私が盛岡の牧師、平野栄太郎先生にめぐりあったのは、もう医学生時代も後半に近い二十三才の時でした。
全くの無名の人でしたが、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロボロになるまで読みつぶしたという平野牧師から、私はエペソ書の第一章を示されて、「ここにこう書いてあるじゃないか」と次の聖句を教えられたのです。

『世の創(はじめ)の前より我等をキリストのウチに選び、御意(みこころ)のままにイエス・キリストに由(よ)り愛をもて己が子となさんことを定め給へり』

私はこの時、「ああ、そうか、そうだったのか」と素直にうなずけた。なあんだ、今までがんばれ、がんばれと言われてがんばってきたけれども、別にがんばることもなかったんだな、俺はもう初めから救われていたんじゃないか。

俺のこの生命は、俺が生まれる前からもうあったんだな。だとしたらこの生命は神と同格の永遠の生命そのものじゃないか。何もこんな罪を犯したの犯さないのとジタバタするようなことなんかないじゃないか、と。

—その時のうれしさ、喜ばしさっていうのは、とても私には表現できないね。
自分が救われたいなんて望む必要はさらさらないんだ。
自分が何をしようが、そんなことは問題じゃない、これほどラクなことはないじゃないか、と。
そして、私はこの“救い”ということが、自分の行為や思わくとは何の関係もない、ということを知ると同時に“報い”ということをも平野先生から教えられた。

<5年間も悩み続けられたという誠実さ。本当に頭が下がります。
私には、これほどの誠実さがあるのか・・・医療家として、持たなければなりません。
そして、救われていることに感謝し、その愛を感じることが大切だと思います。
まだまだ私は橋本先生が23才のころの境地には達しません。
出来る限りの努力は、この写本であろうと思います。260ページありますので、数ヶ月かかりますが、がんばらず・・・
やくばらず・・・いばらず・・・しばらず・・・やりたいと思います。>

今日は、ここまで、それでは ごきげんよう!

2010/08/15

からだの設計にミスはない 写本(p38〜41)

今日は、島津先生の火縄銃演舞を見学にいきました、ありがとうございます。

人間の設計にミスはない

私たちの先祖はね、古来からもうチャンとわかっていたんだ。
人間が病気になったり治ったり、あるいは健康であったりするのは、それはもう人間の成り立ち自体がそうなっているのだ、と。

大自然の原理として、人間は誰でも健康で幸福に一生をおくれるように、チャンと設計されているのだ。
それが実現されないのは生き方の法則からはずれているためで、この法則にそむくと心身の姿と動きに歪みが生じ、心身のバランスがくずれて病気になるのだ、そして又、その歪みを正してバランスを取り戻せば、病気はなおるのだ、と。

人間のからだはそういうふうに出来ているんです。
もしそうでなかったとしたら、病気になったら治るはずがないし、その見込みもない。
治るということは元に戻るということ、設計通りの元のからだに戻るということである。
そのわけさえわかってしまえば、元へ戻る、崩さないという配慮さえ怠らなければ、私たちはもう十分に満足して、気持ちよく愉快に毎日がおくれるんだということです。

そのように、人間のからだが、チャンと設計されていて何一つミスはない、ということになれば、その設計を勉強しさえすれば、誰でも優等生になれるということだが、たとえ勉強なんかしなくたって、からだ自体がそのように出来ているのだから、どうにか落第点さえとらなければ、まず日常の生活には不自由しないようになっている。

その設計には、というか、自然の法則には、ある許容度みたいなものがあって、その範囲内で生活している限りは、何も心配することはないというわけです。

だから私は、いつも口をすっぱくして言うんだ。落第するな、その許容度からハミ出すな、と。
許容度の中で最高に燃え上がって、仕事なり、スポーツなり、セックスなり夢中になるのなら、いくらでもやれ。
だけども、いったん許容度を飛び出すと、元に戻る働きが鈍ってバランスがくずれ、あっちこっちが歪んでくるんですよ、と。

じゃ、その許容度、つまり、どこまでが許されていて、どこからダメだというような何か規定みたいなものがあるのか、と聞かれそうだけれども、それはもう各人一人ひとり違うので、誰に聞くよりも、自分のからだに聞けばいい。

法則というものは厳としてあるんだし、その法則の中で許されている部分があるということだから、少しぐらいズッコケても、どうってことないんだ。
甘えさせておいてくれる幅っていうのがあるということは、ほんとにありがたいと思います。そうでなきゃ、私なんぞはとても生きていけない。
ヤレヤレ、私みたいなものでも生きていける、という安心感は何ものにも代えがたいものです。

甘えさせてはくれても、甘えすぎるとバチがあたる。いい気になって甘えていると痛い目にあう。
そこのところのケジメさえつけておけば、人生何も悲観することなんかないんだ。

及第点さえとらなければ、チャンと健康な生活がおくれるように設計されているんだし、たとえ落第点とったとしても、ちょっと勉強して及第点をとり戻せばいい。しかし落第点とらないようにした方がなおよろしいということですね。

<タバコが大好きな橋本先生は、90才の時、灰皿を取ろうとされて、転び大腿骨を骨折されました。
それを機に、入床生活をされるのですが、床ずれすることなく生活されたそうです。
ゆっくりとからだを動かし、快適感覚をききわけ、味わっておられたのです。
もし、骨折をされなかったら、100才まで生きておられた、と私の師匠・三浦寛先生はおっしゃっています。
気持ちよく生かせていただいていることに感謝!>
きょうは、ここまで、それでは、ごきげんよう!

2010/08/14

からだの設計にミスはない 写本(p36〜38)

今日は、部屋を100%整理出来ました、ありがとうございます。

病名がついた時はもう遅い

私たちのからだはね、基礎構造が狂ってきて、少し捻れたり曲がったりすると、てきめんに気持ち悪くなる。
そしてそれをかまわないでおくと、働きが悪くなる。それをもほおっておくと、しまいに本当の中のものがくずれたり、はれたり、腐ったり、様々な変形が見られ始めるのです。

そういうような段階、つまり、第一段階、気持ちが悪い、第二段階、働きが悪い、第三段階、中のものが変質する、というような段階があり、現代医学の病名っていうのは、中のものが変化し、機会が壊れたということが証明されて初めてつけられるんです。

ところが、皆さん方は医者じゃないから、俺たちは今、第何段階だってことはわからない。
だからちょっとでも気持ちがわるくなったら、病気になったと思うのは当たり前ですよね。

「先生、私昨日から肩がこって、目まいがして、吐き気がするんだけど、どこか悪いんでしょうか」
というと、
医者は、
「そうですか、じゃ、調べてみましょう」とレントゲンをとったり、脳波をとったり、小便や血液とったりする。
「みたところ、何んでもないな、別に異常はないですよ」ということになる。

それでは困るんだなあ。
自分が異常を感じたから出かけて行ったんで、これはもう医者がわからないだけの話です。
一番わかっているのは、おかしいと思っている自分の方なのだが、
「まあ、医者がああ言ってるんだから大丈夫だろう」とか何とか言って、そのままにしておくと、急にお腹に激痛が」走って、又病院へ駆け込むことになる。

すると医者は言う。
「何で、こんなになるまでほおっておいたんです。胆嚢炎だ。肝臓もだいぶやられている。もう少しで危ないところだった」と。

これが現代医学なんですよ。考え方がまるで逆立ちしている。悲劇だね。

だから、皆さん、自分で気持ち悪いと思ったら、この感じは自分にしかわからないんだから、自分で処理するに限ります。
どこが気持ち悪いんだか、いろいろ動いてみて探し出し、そこから気持ちよい方へうまく逃げればいいんです。
それで治っちゃう。
こんなうまいことないですよ。人間のからだってそういうふうにありがたくできているのです。

私たちの先祖は、それをもうチャンと知っていた。確かに先祖は偉かったけれども、それを我々バカ子孫がいつまでも気がつかなくって、怠けておって、今、私たちはバカであったその報いを受けているということですね。

<柔らかい文体で、現代医学を痛烈に非難されているこの内容は、本当に奥が深い。
最近の現代医は、聴診器を使うこともしなで、益々数値を気にしはじめ、しかも専門への分化が進んでいます。
橋本先生流に言えば、バカ子孫が気づかないまま、暴走しているように思えます。
我々操体の3代目が、どのように操体を展開してゆくのか、手腕が問われる時期にきています。>

2010/08/13

からだの設計にミスはない 写本(p32〜35)

今日は部屋の整理が8割出来ましたありがとうございます。
今日も写本を中心にどんどん進んでいきます。

西洋医学と漢方医学

人間というのは地上に立って生きている。二本足でたっています。立って動くことによって、からだの中がどういうふうに変化するか、環境とどういう関係を持っていて、どんな影響を受けているか、ということは、人間がいかに生きるかということと密接につながりあっています。

ところが、この二本足でたっている人間、立って動く人間を、現代医学はあんまり勉強していないんだ。

江戸時代末期に西洋医学が入って来て、昔の漢方医学は次第に駆逐されていくのだが、その西洋医学が入って来た時に漢方医が一番ショックを受けたのは、人体の解剖図だったんですね。それを見て、みんな腰抜かした。

漢方医学では、人間のからだの中の方をあまり細かく云々しなかった。従って中がどんなになっているかがはっきりわかっていなかった。小塚ヶ原 あたりの刑場で首を切られた罪人を解剖して、西洋から入って来た解剖図と較べてみると、まさにぴったり符号する。
実に詳細に書き込んである。それでびっくりして腰抜かしたというわけだ。

これはもう、昔から日本でやってきた漢方なんていうものよりも、西洋の医学の方が格段にすばらしい、ということでね、日本の現代医学が始まったことになっています。
漢方医はそれ以後すっかり衰えて隅の方へ押しやられてしまった。

そして今になって又、漢方、漢方と騒ぎ出した。ところが、今、週刊誌とか婦人雑誌とかで盛んに宣伝している漢方というのは、ごく浅い一面的なもので、本当の漢方というのは、そんなに易しいものじゃないんです。

私は現代医学で習わなかったことを、漢方から学んだ。そしてつくづくと思うことは、漢方の考え方の方が、現代医学の考え方より数段と高級だということです。

例えば、現代医学では、腹の中のどこそこが痛くなったら、そこの所を治すことの力を尽くす。
その個所を非常に詳しく研究し分析する。それに対して漢方医学では、からだの変わり方を見ているのです。
こういうふうに変わったら症状は悪いとか軽いとか、古い病気だとか新しい病気だとか、いろいろな変わり方の研究をして処置をする。

今、あなたが「お腹が痛い」と言ってお医者に行きますと、「ああ、これは急性肝炎だ」とか「慢性腎炎で治る見込みはありません」なんて言われます。
そして「これ、かまわないでおくと、だんだん役に立たなくなってくるから、新しい腎臓と入れ換えた方がいいんじゃないですか」と言われることもある。
それまでには至らなくても、「血液を洗ってやって腎臓の代わりにしましょう」なんて言ったりーまあ、そんなふうにまで現代医学は進歩しているんです。
だけども、そんな考え方、少しおかしいと思いませんか?

私の所にもいろいろな患者さんがやってきます。肝臓が悪いとか腎臓が悪いとか、眼が悪い鼻が悪いといろいろなことを言うんですよね。病院でそう言われた、それを治してくれ、と。

私はいつもこう言い返すんだ。
「それじゃ、あなたの肝臓、そこへ出して置いていって下さい。この次までに治しておきますから」とか、「今度痛みだしたら、小包にして送ってよこして下さい」とかね。いくらんなんでも、そんなことできるわけないですよね。

この立って動くからだと、からだの中にある物とが別な物だと思っているんです、現代の医学は。
そして皆さんもしらずしらずのうちにそんな考えになってしまっているんじゃないでしょうか?

<この節は、西洋医学と漢方医学(東洋医学)の違いを簡単に、橋本先生の臨床を通した見方で紹介しています。
西洋医学、東洋医学のどちらにも造詣が深い橋本先生が、長年の研究の末、このような結論に至ったわけです。
つまり、他人任せではからだは治らない、からだの声(原始感覚)をききわけ気持ちよさを味わうと正体に戻っていくという真理を説いているのです。>

今日は、ここまで、それでは ごきげんよう!

2010/08/12

からだの設計にミスはない 写本(p30〜32)

今日は、レポート作成が出来ました、ありがとうございます。
昨日は、余り写本をしていないので、今回は、写本をしっかりします。

原始感覚

人間のからだのバランスをとる中枢は脳髄にあるが、ここでからだ全体から伝えられてくる情報を受けて選択するのがこの感覚です。
からだのバランスがとれていれば、情報もスムーズに流れていて、こんな時は快調で非常に気持ちのいい状態なのだが、情報が何処かでつっかえたり、詰まったり、氾濫したりすると、からだに異常が感ぜられ、気持ちが悪くなる。
情報の通り道にそういう障害物が出来ると、すぐにからだの歪みとなって表にあらわれてくる。

またこの原始感覚が、伝わってきた情報を選択して、からだの動くべき方向を指示しているのに、「いや、そいつはダメだ」と、自分の意識や知識でもって拒絶すれば、やはりからだの何処かがおかしくなってくる。狂ってくる。

人間はこの感覚に素直に従っていれば、その心身の可能性を最高度に発揮することができるのに、ただ意識過剰のために、この感覚の働きが抑えられ、くらまされているのです。

だから、かえって無意識の時が一番バランスがとれている。
無意識の時は、この感覚が少しも邪魔されずにスムーズに働くからです。
その証拠に、ヨッパライはどんなにころんでも、たとえ階段から落っこちても、大きなケガはしない。
また、子供は無意識な動きさえすれば治るから、くすぐってやれば、すぐにからだの歪みがとれる。

くどいようだが、私の言う治療とは、あくまでも歪みを正体に、自然体に戻すことです。
戻すことさえできれば、その方法は何だっていいと思う。ただ、私が今まで長年模索し経験したうちでは、この原始感覚に従って気持ちよく動きさえすれば、“元の正体に戻る”という方法が一番いいと言うのです。

そして、もう一つ言わせてもらえば、今までの治療はみんな他力だ。確かに効いたという事実はあるけれども、結果的に効いたというにすぎない。

他力だとね、どうしてもコースが決まってくる。人間のからだは微妙だから、そのコースにうまくはまればいいが、はずれないという保障はない。
ところが、この治療法は他力ではなく、あくまでも自分で出来る。自分の原始感覚を頼りにして、痛くない方へ、一番気持ちのいい方へ動くんだから、よほどのことでない限り間違うことはない。
これほど簡単で、しかも確かな手応えのある療法はほかにはありません。
ほんとうにもうけものっていう気がしてならないのですがね。

とにかく生物が動くのは欲しいものを追いかけるか危ないものから逃げるかです。
気持ち悪かったら、そこから逃げて安全な方にゆけばいいし、あるいは痛いところ気分の悪いところを押さえてもらっていて、それが消えるように逃げればいい。
それには運動を分類してみて理解してから分析すればわかる。このアイデアが現代医学には欠けているのです。
<この原始感覚という言葉は、橋本先生の造語だと思いますが、この言葉の意味することは、非常に重要。
真理は、非常にシンプル。あまりにも真理を言い当てておられるので、“本当?”と疑いをかける方がおられるかもしれませんが、臨床を通すとその意味する真理に出会います。
“気持ちよさがあるのか、ないのかよく聞きわけて(原始感覚)あれば、味合う(治療)”です!>

きょうは、ここまで、それでは、ごきげんよう!

2010/08/11

からだの設計にミスはない 写本(p29)

きょうは机の廻りを無にし、整理できました。ありがとうございます。

原始感覚(昨日からの続き)

からだの中の変化に素直に反応する感覚、この感覚こそもっとも大事にしなければならないもので、いつでもそれを高めようという意欲をもって、鍛錬し磨き上げていくような心構えを私たちは常に忘れてはならないし、知識や文化もいいけれども、その知識や文化に誤りがあれば、それをこの原始感覚で見分けられるようでなければならないと思う。

<この一節は、さらりと書かれてありますが、実に奥深いと思います。
“いつでもそれを高めようという意欲をもって、鍛錬し磨き上げていくような心構えを私たちは常に忘れてはならない”とあります。
これは、からだとの対話を通して真理を感じ取ることを意味します。
この2週間ほど、私はフィットネスクラブに通い始めました。1年半ほど前の私からは、考えられないことです。
何しろ、京都の山奥で、一人暮らしのおばあさんが多く住んでいる集落にいたのですから・・・・
洗面所に鏡はありましたが、余り自分の顔、姿をゆっくり眺めるようなことはしませんでした。
どちらかというと、自然の変化に目が行き、私自身は自然の一部として同化している感覚でした。そのため、他人との会話を全くしない日もあったほどです。
また、この感覚は快適でした。

ところが、東京のど真ん中・世田谷に住むようになり、心もからだも少しずつ変化していったようです。世田谷は緑の木々が多いのですが、それでも、コンクリート、アスファルトに覆われています。そして、人々が溢れています。

このようなところでは、人々が自然。もっというと人のからだが自然。どうしても、からだに目が行ってしまいます。
街を歩けば、ガラスに映る自分のからだがやはり気になります。

そんな状況下でのフィットネスクラブ。
大きな鏡を前に自分のからだとゆっくり対話していきます。多くの人々が黙々とからだを動かしているなかでの、自分のからだとの対話は、楽しいものです。

そして、記録していた数値が徐々に上がっていき、からだが元気になっていくのが分かる、という感覚が非常に大切。
しかも、インストラクターの2日程、筋肉を休ませる事が大切であるという助言(これは、橋本先生の文章では、“知識”にあたります)を、しっかり守った結果、大幅に数値が上がりました。

この体験から、からだには宇宙の大法則が存在していると感じられるようになりました。
フィットネスクラブでのからだとの対話は、持って生まれた原始感覚を徐々に鍛えられる一つの方法だと思っています。>

今日は、ここまで。それでは ごきげんよう!

2010/08/10

からだの設計にミスはない 写本(p28〜29)

今日は、本棚を作ることができました、ありがとうございます。

では、写本を開始します。

原始感覚

医者を必要とするのは人間の世界だけだ。山や野に住む動物たちや、アフリカのライオンなんかに医者はいない。
ああいう野生の動物っていうのは、自分で自分のからだを治す方法を知っている。
自分の勘で治してしまうんですね。

<京都・美山の山奥で暮らしていた時、飼っていた猫のミミちゃんが、マムシに左前足を噛まれました。
その時、彼女は居間の静かな暗い場所で安静の状態。われわれ家族が見えるので、心地も良かったのでしょう。
何も食べず2〜3日ですっかり回復。
ペットと言えども、マムシがいるような環境で育つと、野生の勘が戻っているのでしょう。>

勘—私はこれを原始感覚ともいっているが、この感覚は本来人間にも備わっているものだ。
自分の原始感覚に従って、自分のからだに合った行動をとったり、食物をとったりする。
私たちの先祖は、まさにそういう生活をしていました。
やっぱり自分で自分のからだを治す知恵をもっていたんだ。
地震が近づけばナマズが騒ぐ。トウモロコシのような植物でも、その年の風の強さ弱さで根の張り方を変えるというが、そのような感覚を持っていたんです。

<京都・美山町は雪深いところ。1m50cm以上積もったこともあります。ススキに作るカマキリの巣の高さでその年の積雪を占っていました。よく当たりましたよ!>

そして、この天来の感覚はちゃんとバランスがとれていて、自然界の変化の中でいろいろな作用を受け、それに対して素直に反応しながら生きていくために、欠かすことのできない神からの授かりものなのです。

この授かりものを、人間は、進化するに従って、知識や文化が進めば進むほど、その方にばかり気をとられてしまって、もはや忘れ去ろうとしているが、この原始感覚が鈍麻して、しだいに知識偏重の生活に切りかわっていけばいくほど、私たちは健康な生活からしだいに遠ざかり始めているのだ、ということに気づかなければ、今に大変なことになると思えてなりません。

<現在、潰瘍性大腸炎という、大腸ガンの予備軍のような病気が、若者の間で急速に増えています。
この原因は不明。驚くことに、現代医療において、原因不明の病気が非常に多いのです。

実は、多くの原因を精神的なストレスと診ることができます。精神的なストレスを持つからだは、必ず歪みを持っています。また、歪み自体がストレッサーとなり、からだは愁訴として表現しています。また、この歪みは想は元より息・食・動にも反映しています。
あらゆる歪みを反映しているからだの歪みを診るのが操体です。

ところが、現代医療における潰瘍性大腸炎の治療法は、内科的薬物療法。
しかし、これらの療法をおこなっても、予後は寛解と増悪を長期にわたって繰り返す、とあります。そして、全大腸炎型では、10年以上経過すると癌化率が高くなる、といわれています。
ということは、現代医療では治せないといわざるを得ないのではないでしょうか?

今の若者は、自然の中で遊ぶという当たり前の行動をしてきたのでしょうか・・・・どうも、ゲーム機というバーチャルな世界に身を置いていたように思えてならないのですが・・・>

きょうは、ここまで。それでは、ごきげんよう!

2010/08/09

からだの設計にミスはない 写本(p26〜27)

今日から、訳あってたとえ、一日のうちに達成されるであろう目標を書き込み、しかも、それが達成される事を前提に、(することが出来ました)と過去形で表現し感謝することにいたします。

今日は基本的に休養日ゆっくりして、部屋を片付けることが出来て、ありがとうございます。
2点3壮の灸練習再開、ありがとうございます。
有酸素運動とストレッチ(特に肩甲骨)しっかり出来てありがとうございます。

それでは写本をはじめます。

操体法のひろがり

先日、市の部長級以上の職員の集まり数十人の前で講演したが、その時に特に私が強調したことは、やはり教育の面から入っていかねばならないんじゃないか。
学校の先生がまず子供たちに理解させ、子供たちが家庭に帰って親とともに実践していくというような地道な運動を展開しなきゃならないんじゃないかと、と。
幸いに教育長や衛生課長なども一生懸命な様子で、今に何らかの実際的な動きが出てくるんじゃないかと思います。

もっとも、高校の運動部、例えば甲子園の常連校・仙台育英高や、卓球で有名な古川市の祇園寺高などでは、3年前から生徒の健康管理にこの操体を取り入れていて、これをやるようになってからケガは激減するし、腰や肩の痛みを訴える選手も少なくなったと言っています。

それともう一つ、教職員組合の中からも動きが出てきています。原子力船問題で有名になったむつ市を中心にひろがっているようだが、うちの研究員をやったり、向こうから実修に来たりして、かなり熱心にやっているようです。
こうして、自治体や大学、教組やらが下から突き上げてくれれば、厚生省も黙ってはいられまいし、医学界も騒ぎだすだろうね、きっと。

<前日、述べましたように操体は、健康体操として普及(特に関西地区)しているようです。
しかし、操体はあくまでも、自然の法則に則した生き方です。
ここで出てくるのが、息・食・動・想という橋本哲学。
これは、人間が生命活動を維持するため、自己責任として営まなければならないこと、呼吸・飲食・身体運動・精神活動のことです。
これらには、自然の法則がありそれに従って生きれば健康が維持されます。しかも、100点満点である必要はありません、60点以上でいいのです。

簡単にいうと、このような思想です。

その中で、身体運動の法則を“般若身経”として説いています。
実は、この“般若身経”、奥が深く簡単に普及できるようなものではありません。
現在、三浦寛先生が一つ一つの動きを分析・統合しながら追求されておられます。
いずれ一般の方々に普及出来る様に、ある程度の形ができるかもしれませんが、まだまだ時間はかかると思います。>

今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/08/08

からだの設計にミスはない 写本(p25)

操体法のひろがり

それにね、遠野市が、あの「遠野物語」(柳田国男)で有名な所だが、一昨年から市をあげてこの操体をやっています。
この町は、国民健康保険が大変な財政負担になっていて、これではとてもやっていけないということで、「病人をなくして、みんな健康に」という運動を操体を中心にやっているのです。
これは岩手放送でとりあげられて、週に1度、半年かけて放送され、ずいぶん話題になったようです。

そして、この遠野市に影響されたのかどうだか、今度は石巻市や胆沢町がやりだした。
石巻市では、国保の関係者が、保健婦を使ったり、ボランテイアなんかをも総動員してやりだしたいというんですよ。

いつだったか、国保の会議があって仙台市の人がでかけたら、石巻の人に「なんだ、俺たちの方ではこんなにやっているのに、お膝元のお前の所はどうしたんだ」とハッパをかけられたとか。

ところがね、最近になってこの仙台市も動き始めたんです。今(1978年)の島野市長は革新系だが、私の所へ患者として来たこともあり、先日も私に「医学の原点に立って、市民の健康というものを開発していこう」と助役ともども約束してくれた。

仙台市は全国に率先して健康都市宣言をしており、健康都市推進局というのがあって、環境整備や福祉の施設づくりは、全国に先がけてどんどんすすんでいるが、いくら「健康・・福祉・・」と叫んで、その要請のもとに施設を充実させたところで、肝心の市民一人一人が生活の根本から改めていこうという気概をもつような運動にしなきゃ何にもならない。

<橋本先生がご存命の時は、このように市をあげて操体を健康作りの基本に据えようとする動きがあったようです。
ただ、現在それがどれほど続いているか、よくわかりません。

ここで、気になることは「操体とは健康体操」だと勘違いされることです。
操体は自然の摂理にそった生き方であり、健康体操ではありません。

自然の摂理にそった動きが、身体運動の法則。
これを、茶目っ気のある橋本先生が、“般若身経”と名付けられました。“般若心経”の心を身と置き換えられて、ニコニコ笑っておられたのだと思います。

ところが、この茶目っ気が一人歩きしてしまい、健康体操になってしまったのです。>

今日は、時間がないので、この辺でお開き!
明日、この続きを書きます。では ごきげんよう!

2010/08/06

からだの設計にミスはない 写本(p24)

操体法のひろがり

こうなるとね、大学が黙っていられなくなったとみえて、宮城教育大では講義までさせられるし、岩手医大でも来いという。東北大の生理学の後輩たちの中でも関心をもつものが出てきたんです。

東北大の中での脳神経疾患研究所の佐藤元先生や伊藤久雄先生、宮城教育大では川上吉昭先生の研究室は熱心ですね。
脳研には、私の所の若い者が二人、週に数回出かけているが、そこの患者さんというのは、大学病院や大学院が手に負えなくなって回して寄越す人たちです。

そういう人たちを私の所の者にやらせてみると、それまで10年も20年もいろいろな医者が診てダメだったのが、みるみるうちに変わってくるものだから、そこの先生方が、こりゃ大変だということで、今、研究にかかっているんです。

宮城教育大の川上教室では、月に一回研究会を開いて、私のところで診ている筋ジストロフィーの患者や知恵おくれの子供たちのからだの変化の観察・治療の結果を検討しています。

今のところ非常によい結果が出ているのは事実だが、それがこの操体だけでそうなっているのかどうかを断定するだけの資料がまだないものだから、今は何とも言えません。
だけども、本当に熱心に検討会が行われていて、もうしばらく様子を見ていこうと思っているところです。

いずれにしても、最近になり専門家の注目をひき、これを研究しようという動きが大学の中で出てきたのは、50年余りの私の願いが微々たりといえども報いられて、その開発しだいでは世界の医学が変わるだろうと思えてならないんだ。

<宮城教育大の川上吉昭教授が中心となって、「操体法写真解説集」:柏樹社が1979年に出版されました。分厚い本で最初の20ページ程は、カラーで橋本先生がモデルさんに操法をしています。それ以降の200ページ程は、白衣姿の男性が同じモデルさんに操法をしています。
この写真集は、英語版になり海外(私の知っている限りではドイツ)の専門学校のテキストになっています。
ただ、その後、大学で操体が研究されているのか、私にはよく分かりません。

また、この「操体法写真解説集」は大変素晴らしい研究書ではありますが、症状疾患別に操法を紹介しています。
実をいうと、これは操体の見方ではありません。
我が師・三浦寛先生が、疾患別治療大百科ーアレルギー性疾患:医道の日本社のなかで、次のように書いておられます。

「私自身は3度目の執筆だが、今回はちょっと本音を言わせてもらいたい。というのは、「疾患別治療」というテーマに対して100%納得して執筆しているのではないということである。
筆者も臨床家の1人として、35年間、臨床に携わってきた、その上で、白日の下にすべてをありのままに本音で読者にさらけ出し、問いかけてみたいのである。

一般的には、臨床家の多くが、病名、疾患別治療という捉え方で実際の臨床に望んでいるのであろう、しかし、疾患別に治療するという臨床家の姿勢が、果たして本然(理)にかなう臨床なのか、別な表現を借りれば、疾患そのものの現象をいきなり捉えて治す、という試みが、果たして理にかなった方法なのか、その疑問を改めて考え直す必要がある、と筆者は読者に問いかけているのだ。

心ある臨床家の多くは、「疾患別に診る」というこだわりをもって臨床には望んでいないのである。
健康傾向の歪体化というプロセスが理解されていれば、疾患そのものは結果的な現象なのであって、その現象を結果的に引き起こしている原因が存在していることに、気づきをもって、把握しているのである。

疾患そのものも、必ず火元(原因)があって成り立つ現象(変化)である。「喘息」という疾患そのものも、因果があって生み出されたキャリアである。
臨床に臨むに当たって、喘息そのものを鬼の首を捕らえていきなり治療の表に引きずり出すような臨床行為は、火元に放水して消化しているのではなく、サイレンに放水し消しにかかるようなものなのである。」

このように、操体では、症状疾患別にからだを診ません。疾患の原因であるからだの歪みを診るのです。
逆にいうと、あらゆる疾患を診ることが出来ます。なぜなら、疾患を持ったからだは歪体化しているからです。

今日は、橋本先生のお話から少しずれましたが、操体を知る上で非常に大切なことなので述べてみました。>

今日は、ここまで、明日は出張のため、お休みです。では ごきげんよう!

2010/08/05

からだの設計にミスはない 写本(p22〜23)

操体法のひろがり

私は戦後ソ連に抑留され、昭和23年に帰還した。
帰還後の3年間、私はじっと現代医学界の情勢をみていました。当時、サルファ剤やペニシリンなどをのりこえて抗生物質が外敵に対する威力を発揮していて注目の的であったが、疾病現象そのものについての研究は誰も目新しい発表をしていないようなので、昭和26年あたりから「日本医事新報」その他の雑誌に書き始めたんです。

そして、その後の20何年間、私はからだの基礎構造生理と医療との関連について、各誌に書きまくったが、肝心の現代医学界からの反応はほとんどなかった。
ほとほといや気がさしてきて、昭和49年頃には、もう書くのはやめようと思いました。

これがいよいよ最後だと思って、もうこれで筆を断つことを決心して、その年の暮れに「山寺の晩鐘」という一文を書いた。
この鐘でおしまいだ、という意味の外に、“おててつないで皆帰ろ”の文句を「うちに帰ればいいんだ、元に戻ればいいんだ」という意味を含ませたつもりだったのです。

ところがね、いざ書くことをやめてしまった途端に、「現代農業」誌が連載を頼みに来るし、地方のテレビ局は騒ぎだすしで、とうとうNHKまでやって来た。

おかしいもんだなあ、「山寺の晩鐘」のつもりが、あっという間に「夜明けの鐘」みたいになってしまって、たちまち私は有名人というわけです。
特に筋ジストロフィーの少年が、操体によってめざましく好転していく過程をNHKで放映してからというものは、全国各地から、遠くは沖縄、北海道からも患者が押しかけてくるようになりました。

<この文章を読み直し、橋本先生の凄さを改めて認識致した次第です。
20数年間、全く反応のない現代医学界に対し、警鐘を鳴らす投稿を続ける信念。
コツコツと“静かな汗”をかいておられるその姿に感動を覚えます。
この橋本先生が伝えようとされている、“生命体の真理”を
橋本先生の愛弟子・三浦寛先生が継承され、我々弟子達が学んでいるのです。

私が、写本をするようになったのは、三浦寛先生の薦めがあったのと、操体を学びはじめ、10年目になった現在、今一度原点に戻り、改めて操体生活を始めたいと思ったからです。
この写本を始めて、橋本先生の息づかいを感じることができるようになりました。

私のような、わがままな人間は、写本をする事で謙虚さを学ぶことが出来るように思います。
写本を薦めてくださった三浦寛先生に改めてお礼を申し上げます。

PS:今日8月5日は、私の長男の誕生日。記録的な暑さのなか、京都・綾部市の大本教本山横の
病院で生まれました。
あれから、16年経ち、子供達3人はスクスク育っているはずです。

必ずや再会し、私の生き様をみてもらいたいと思います。>


今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/08/04

からだの設計にミスはない 写本(p21〜22)

元に戻せばよくなるのだ

<昨日からの続きです>
でもね、皆さんがこの療法を理解してくれて、家庭の中で活かしてくれたら、お医者さんなんかいらなくなってしまうからー。奥さんとダンナさんがお互いにね、

「あんた、どっちが気持ちいいの、私が痛いところを押さえといてあげるから、気持ちのいい方へ動いてごらんなさい」
「どうも俺、背中のこの辺が調子が悪い。こっちへ動かすと痛いから、その時はその反対へ動かせばいいんだな」
「私、手伝ってあげるから、うつ伏せになってごらんなさいよ」
「じゃ、お願いするかな」
「どの辺が痛いのよ、この辺?」
「ああ、そこだそこだ」
「それじゃ、私がここに手をあててるから、あなた、息を吐きながら、痛いのが痛くなくなるようにからだを動かして逃げてみてよ」
「こうやってかな、三十六計逃げるに如かず、とはこのことか」
「どう、とにかく気持ちいい方に逃げればいいのよ、そうそう」
「ああ、痛いのがとれてきた、とれてきた」
というふうに、夫とか妻が、親と子が、彼と彼女が、友だち同士が、お互いに心を通わせて相睦み合ってやりあえば、世の中も平和になるんじゃないかなあ。

<私は四国の山奥で生まれ育ちました。四国はお灸が盛ん(多分、八十八箇所お遍路廻りのせいでしょう)で、じいさんや、ばあさんが近所の人を我が家に呼び、お互いにお灸をすえていたのを、覚えています。

また、私が小学生のころは、神経性胃炎に悩まされていたのですが、父親の指圧でいつも良くなっていました。
この体験が医療への道の礎になったようです。まあ〜随分と回り道になってしまいましたが・・・

父親が亡くなってから13年たちます。胆嚢を取り出すという簡単な手術のはずが・・・今でも、医療ミスだと思っています。
もう少し早く、この世界に入っておれば、父親に恩返しが出来たかもしれなかったのに、何か適切な助言を与えることが出来たのではないか・・・
と考えてしまいます。

とにかく、家庭内で健康管理をしていくのが基本です。
その真ん中に操体を置くことがベストだと思っています。
なぜなら、操体は自然法則の理を説き、しかも、100点満点でなくても充分。及第点を取っていれば、快適な人生を送ることができるのですから・・・>

今日はここまで、それでは ごきげんよう!

2010/08/03

からだの設計にミスはない 写本(p19〜21)

元に戻せばよくなるのだ

私は患者さんに対して「痛い運動は、それ以上やるなと前方に赤ランプが出ているということだから、バック運動しなさい。元に戻せばよくなるのだ」と説明しているが、これをもっと具体的にくだいて言うと、例えば、右の腕がどうも動かしづらい、とします。
無理して動かすと痛い。

なぜ痛いのかというと、そういうふうに動いてもらうとだんだん壊れるから、動けないようにからだの方が防衛しているわけです。
それをね、無理やり引っぱったり捻ったりするから、ますます悪くなるんですよ。
そういう時は決して無理をしてはいけない。痛いとか、動かないということがわかったら、そこに歪みがあるということだから、動かせるギリギリのところから、痛くないラクな方向へうごかせばいい。
元へ戻す運動のコースを整復コースとすれば、このコースへのせればいいんだ。

他人にやってもらっても、自分でやってもいい、とにかく動きの分析を行い、コースを確認して、それにのせることです。
元に戻して、ちゃんと元の所へもってくれば、すぐに元のように動くようになる。ただそれだけのことです。

それだけのことを、私がここでパッパッとやると、今まで口もきけないほど苦しかった痛みが、いっぺんでとれる。
動けなかったものが、すぐその場で動けるようになるのだから、患者の方はもうびっくりして、キョトンとしている。

まるで奇跡のように思えるかもしらんが。わけさえしれば、何もこれはたいしたことじゃない。こんなことはたいしたことじゃない。
何も大発見というほどのことじゃない。こんなことは学問にもならないんです。
だけどもやっぱりこれはお医者さんたちが是が非でも知ってもらわなくっちゃならない。それにはね、皆さん方が十分にこれを理解してくれて、医者を突き上げてもらわないとダメなんですね。

「あんた、これなおせるか、治してみろ。治せないなら俺がなおしてみせる」
「この病気はこうやって治るんだけれども、これはどういうわけで治るんだかわかるか」
なんて医者たちにいうようになれば、医者としてもウカウカしてはおれまいから、勉強せざるを得ないでしょ。


<おそらく、これほど簡単に真実を語っておられる人物は洋の東西を探してもいないと思います。西洋医学を勉強され、その限界を知り、医者の立場から、西洋医学を否定されています。

事実、器質の変化が臓器に現れるまで、病名がつけられず。病名をやっとつけた時点で、医者から何でこんなになるまで放置していたのですか?という矛盾した発言を聞くことがあります。
病名が分かった段階では、もう手遅れ!ということも多いのです。

その点、望診・問診・聞診・切診・舌診・腹診・脈診など様々な診断法がある東洋医学の方がはるかに優れていると思います。

操体では、東洋医学にもない動かして診断する動診があります。
しかし、この動診も進化して現在に至っております。
昨日にも言いましたが、橋本先生の生きておられた時代と現在とは環境・精神状態等の差違があり、それがからだに反映されています。そのため修復コースが必ずしも一定の動きではありません。
現在では、動診も動きよりも、患者さんによる感覚分析を動診としています。つまり、快なのか、不快なのか患者さんに動きながら感覚の聞きわけをしていただくことを動診。そして、快ならば、それを味わうこと、これを治療としています。>

きょうは、ここまで。では ごきげんよう!

2010/08/02

からだの設計にミスはない 写本(p18〜19)

元に戻せばよくなるのだ

何でも気持ちのよいことをするのがいい、と言ったが、からだを動かすのでも、気持ちのよい方へ動かせばそれでいいのです。
だけども、ただメチャクチャに動いたんでは、どっちが気持ちいいのやら、どっちが気持ちわるいのやら、それがよく分からない。
やはり動きというもの、人間はどういうふうに動くものかをまず考えなくてはならない。

動きというものは大きく分類して8つある。
前後屈伸、左右屈伸、左右の捻り、引っぱりと押っつけ、の8つです。(極限律—オクタント)。

まずその8つの動きを一つ一つ試してみること。そして、もっとも気分の悪い動きはこの8つの中のどれかがわかったら、その動きの反対が1番気持ちいいんです。
左の捻りに異常を感じたら、右に捻るのが1番気持ちがいい。そういうふうにからだができているのです。

<この指摘は、現在あまり行っていない操法・第1分析の理論に属すると思います。
例えば、仰臥位膝1/2屈曲位で、両膝を右に傾倒して、痛みを感じたので、反対の左に傾倒するという考え方。
もしくは、痛みを感じない場合、どちらの方が楽ですが?
という問いかけを行い、楽な方へ傾倒する二者択一の操法。
現在は、この第一分析をほとんど行いません。
しかし、残念ながらこの操法が世間一般では操体法として、知られています。
橋本先生のこの文章を読まれて、「あ〜あ〜そうなんだ、二者択一の操法という簡単な理論なんだ」と誤解される方が多いと思います。
事実、私もこの本を30年近く前に読んだときそう感じました。
こんな便利な理論があるなら直ぐにでも習得し、実践してみたい!と多くの方は思われると思います。

ところが、これには3つの落とし穴があると思います。

1:橋本先生があまりにも名人でありすぎたため、患者さんに触れた瞬間、患者さんが気持ちよさをもうすでに感じていたと思います。その状況下での操法と、素人が触れた時の操法では、歴然とした違いがあるはずです。

2:当時(高度成長期を向かえる以前)は農業や水産業のような第一次産業に従事する人々が80%近くいました。そのような人々のからだの歪みと高度成長期後の人々の歪みは必然的に違いがあります。
特に、最近の都市に生活する若者は、ストレスを抱え込み、そのストレスがからだの歪みを作っています。
つまり、単純に色分けできるからだではなくなっています。

3:1と2との結果、当時、橋本先生の治療を受けた人々は、動きやすい=快、動きにくい=不快という理論が成立していたのですが、動きやすい=快という理論が現在では成り立たなくなっています。

つまり、動きやすい=楽は成り立ちますが、楽=快は成り立たないのです。

このことは、橋本先生の愛弟子であり、私の師匠である三浦寛先生が、「快からのメッセージ:たにぐち書店」p113で詳しく書かれてあります。

現役を退かれた橋本先生が、「気もちのよさをききわければいいんだよ。気もちのよさで治るんだからな」
と三浦先生に語りかけられ、従来の楽な方向への動診と操法を見直すきっかけとなったのです。>


今日はここまで、では、ごきげんよう!

2010/08/01

からだの設計にミスはない 写本(p15〜18)

からだの設計にミスはない

当時は函館にいたもので、患者には漁夫が多かった。
ある日、マストから落ちてケガをしたのがやってきた。
額に何かをぶっつけたらしく、ペコッと丸くへっこんでいる。
陥没骨折というやつです。

これは、ちょっと手術以外にどうしようもないな、と思ったが、フトこっちからへっこんだんだから、反対のどこかに何か変化があるのではと思い直して、頭のあっちこっちを触ってみたのです。
するとちょうど後頭部の対称点にひどい圧痛があるという。

そして、そこの所を触ると、うんと気持ちがいいと言うんですね。気持ちがいいんだったら気持ちがよくしてやれ、とばかりにそこを毎日押してみた。
するとね、骨がだんだん出てきてんだ。初めはこんなことってあるのかな、と思っていたが、確かに出てきている。
それからはもう一生懸命、とにかく押してやれと思って、それを2〜3ヶ月続けてみたら、ほとんど凹みが目だ立たない程度にでてきたんですよ。
こっちはもうびっくりしてしまった。こんなことは現代医学で教えてくれないものね。

<先日、ある患者さんとこのような会話をしました。
「東洋医学では、肺と大腸は陰と陽の関係があるんですよ。」
「あれ!じゃあ私が結核になったとき、急に便が細くなったのは、関係があるのかしら?」
「それは、あると思いますよ。
肺と大腸は位置的にもからだの対角。左の肺が右の上行結腸と関係があると思います。すべて、表裏一体ですから。」
このような会話をしました。
ぽろっと話したことから、思わぬ真実を知ることができました。>

私が、「とにかく気持ちのいいことをしろ、気持ちのいいことが1番だ」といつも言うのはこんな経験があるからなんですが、まあ、そういった療法をする人が、民間には昔からいたんです。
私はその後ずっと、あらゆる機会をとらえてはいろいろ試みてみましたが、まさにその通り、という確信をますます強くしたものでした。

気持ちのいいことは何をしてもいい。苦しい方、痛い方に動くのでなく、ラクな方、気持ちのいい方へ動けばいい。

だけどもね、その時にはうんと気持ちよくっても、後になって気持ちが悪くなる、つまり、後味が悪いっていうのがあるが、それは本当の気持ち良さとは違う。

例えば、食い過ぎ、二日酔い、あれは後味悪いよね。
セックスにしても、相手とおしゃべりしたり、手を触ったりキスしたりするぐらいで楽しむなら、まあそんなに後味が悪いなんてこともないだろうが、ある特定のところで、がんばってはしゃぎすぎるとダウンして、翌日はからだがシャンとしなくなる。

結局ね、撫でても、さすっても、たたいても、火を押しつけても、針をさしても、たとえ焼火ばしを押しつけても、それが気持ちよければ何をしてもかまわないんだ。
後味が悪くなければかまわないんですよ。

よく患者さんは「これは冷やした方がいいですか、温めたほうがいいですか」と聞きますが、私はいつもこう答えることにしています。
「冷蔵庫も入ったていいですよ、それが気持ちいいならね」と。

<橋本先生が、快適感覚に立脚した操体の体系作りに、大きな影響を与えたのが、この「マストからの転落・陥没骨折事故の治療」。
己が存在する以前からある生命体に感謝し、その生命体は常に快適感覚に従うという理を理解して治療に専念すべきだと、あらためて思います。>
今日は、ここまで。では、ごきげんよう!

2010/07/30

からだの設計にミスはない 写本(p13〜15)

気持ちのいいことなら何をしてもいい

大正10年(1921)に私は医師となり、直ちに基礎医学の生理学教室に入ったのだが、その5年後には、臨床それも全科開業病院へ飛び出した。
その年から、自分はアカデミーとは別な道を歩いたことになる。
なぜならば、私は正規な現代臨床学の厳格なしつけを、身につけ得ないでしまったからだ。単に学生時代に学んだ一般医学常識と、これを手引として医学雑誌を読むことだけで、臨床の師の指導というものを受けたことがなかった。
基礎医学もほんの初歩からいきなり民間臨床に飛び込んだのだから、ほんとに無茶な話です。
そんなわけだから、患者のいろいろな愁訴に正直なところ全くお手上げだった。医学書片手に奮闘したが、わけのわからないことばかりで手のつけようがない。いかにして患者の苦痛を除去してやるべきか、と私はあせざるを得なかった。
今にしてみれば、老大家といえども医師としてのこの苦悩は常にもっているのであるが、若僧の私はあせりにあせったのだ。
そして、私のような医者に見切りをつけた患者たちの動きを眺めていると、相当に非医者たる民間治療師や漢方医に流れていることがわかって、私は自分の貧弱な現代医療に何かプラスするものがあるかもしれないと触手を伸ばしてみはじめたんです。
特に私は整形外科の患者が苦手で往生していたので、接骨師を引っ張ってきてやらせてみたり、按摩、鍼、整体などの町の治療師たちに頭を下げて来てもらって、そのテクニックを教えてもらった。
彼らとて医者が頭を下げて教えを乞うのに不愉快なはずはなく、みんな得意になって親切に教えてくれた。
そんな模索を10年も続けただろうか。私には民間療法に一貫しているもの、彼らの企画しているもの(自らはそれを意識していないようにみえる)が、おぼろげながらつかみ得たと思った。それは、運動系の歪みの是正にある、ということに間違いないように思えてきたんです。
そして、更にいろいろとあさっているうちに、その歪みを治すのに、痛いことをしないで、痛くない方向に動かして治す方法があったというわけです(正体術・高橋迪雄氏)。
ハハア、なるほど、骨を動かすのか。骨格と病気とは関係があるな。私はその時、腹の底から得心がいったようなきがしました。


<橋本先生と民間療法との運命的な出会い・・・そして、操体法の兄貴分に当たる正体術との出会いにより、橋本先生が生涯をかけ、体系付けていかれた自然法則の理としての操体へと展開していったのです。この体系化された操体を三浦寛先生が確立されつつあり、我々弟子達が継承しているのです。
それにしても、橋本先生の謙虚さには、本当に頭が下がります。
ついつい不遜になる私は、常に常に、橋本先生の心をお手本にしなければなりません>



今日は、ここまで!
明日は、出張のためお休みです。

2010/07/29

「からだの設計にミスはない」写本(p11〜13)

20数年前出会った本「からだの設計にミスはない」橋本敬三著を少しずつ、写本していきたいと思います。
所々、私の感想を入れていきたいと思います。
この本のお陰で、今の私があります。

丁度、滋賀県にある精神科の病院で働いているとき、この本と出会い、独学で身体運動の法則を学び(今考えると、ゾーとします!)患者さんに教えたところ、評判がよかったのです!

それでは始めましょう!<>内は、佐伯の感想文


有難き生をうけ、生かされてはいるが、どうもうまく生きかねているのが一般だ。何か間違っている。間違ってはならぬ、大自然の理法がある。その理法はむつかしいものではない。楽しい快適な、簡単なものだ。
その波動に共鳴共振すると天国が開ける。天成りの道を知ろう。

<何かに行き詰まったら、この原点に帰ってみると良い!>

第1章 人間の設計にミスはない

日本は宝島

私の治療法をね、橋本式だとか、私が開発したものだとか皆さんがよくおっしゃいますが、これね、私が自分で発明したことなんか、何んにもありゃしない。全部、民間から頂戴したものです。
私は50年も医者っていう名前で生きてきたけれども、その間にね、私は現代医学のアカデミー、いわゆる西洋流の医学からは何にも得た物がなかった。

<ここまで言い切れる橋本先生の凄さが、最近やっと分かってきました>

私に知恵を授けてくれたのは、みんな町の民間の治療師や漢方医たちだったんです。
日本は宝島でね、宝がいっぱいあるんですよ。地理の上からみても、日本は大陸のふきだまりで、いろいろなものが大陸から吹き寄せられてくる。
この先はもう海に落っこちるだけとなれば、いいもの悪いものがどんどんとたまってくる。
古来からずいぶんと積もり積もってきたんだろうが、悲しいかな、どれが宝で何がガラクタかとんと区別がつかない。
なかには21世紀の全人類に福音となるような宝だって埋まっているだろうが、西洋から来たものだけが宝に見えて、古来から東洋に伝わり民間に残されているものはガラクタに見えてしまうんだな。
私はこのガラクタのように思われているものの中から、21世紀の人類へ遺す宝ものを頂戴いたというわけです。

<事実、橋本先生は古代文字、ホツマ伝え・カタカムナ文字の研究者です>

こんなふうに言うと、いささか誇大妄想のように思われるかもしれませんが、それは私が誇大妄想ということでなくて、事実、日本の中にそういう宝があったということなんですね。
それを私がちゃっかり頂戴して理解させてもらった、それだけのことなんです。

<東京操体フォーラムでは、古武術の大家・島津健治先生のご指導を受け、古来の医道を体験しています>

ですから、さきほどもいいましたように、橋本式治療法なんて特別なことのように言われると、何だかお尻がむずがゆつなって、どうも調子悪いんだ。
いろいろな人が私の所におしかけて来て勉強していきますが、その人たちにいつも私言うんです、あんまり橋本式って言うなってー。
それよりか日本が宝の国だってことを自覚しなよってー。
日本にはまだいくらでも宝があるんだけれども、みんなそれを拾って磨かないから、まるで宝の持ちぐされだよって。
私も始めはやっぱり西洋医学をやったし、気をいれてやった時期もあったけれども、そこで習ったものなんかは、あんまりありがたくないもんばかりだったね。
もっとも私が民間の方に目を向けたっていうのも、決して私が偉かったからとか、宝を見る目が初めからあったなんていうことじゃない。
私は若い頃、大学の研究室で神経生理をやっていたが、とうとう食いつめて民間の病院に飛び込んだ。
ところが、大学では研究ばかりで臨床をまるっきり経験していなかったために、すっかり現代医療に自信を失い、民間治療に目を向けたってことだから、私もあんまり自慢するほどのこともないわけだよなあー。

<橋本先生の謙虚な姿勢に惹かれます。医療従事者としてのお手本だと思います>

2010/07/28

からだとの対話

記録的な猛暑が続いているロシアの首都モスクワで26日、気温が37,4度に達し、130年の観測史上最高を記録したそうです。
おまけに、モスクワ周辺で発生した森林や泥炭の火災の影響で、スモッグが市内を覆う事態も発生。
窓やドアを通じてオフィスや住宅など室内にも流れ込み、モスクワ市民は酷暑と灰のにおいの二重苦に閉口。
とあります。ロシアの首都モスクワは北緯55度45分8秒、同じ緯度を東にのばし日本付近では、宗谷岬をはるかに超えてサハリンも越え、カムチャッカ半島中部あたりになります。
ということは、夏は白夜。
ドイツのハンブルグが北緯約53度。
このハンブルグで6〜7月を過ごしたことがありますが、夜の10時30分になって、やっと日が暮れ、朝は早くから日が昇り、完全な寝不足になった経験があります。

モスクワは、このハンブルグより北。
眠れない日々が続いているのでは・・と三重苦を想像してしまいます。

と心をモスクワに馳せながら・・・東京・世田谷の猛暑にCa,Mg,K入りのカラダ・バランス飲料を飲みながら耐えています。

愛媛の山奥に生まれ育った私は、暑さも寒さも苦手。
京都・美山町の茅葺き民家に20年住んでも寒さには対応出来ず、2月には鬱気味になっていました。
まあ〜それに比べれば、この暑さはまだマシ。

未だに,扇風機・エアコンをつけず頑張っています。
幸い家と家との隙間が風を運び、網戸越しに部屋を涼しくしてくれます。
日中は無風でも、夕方の5時くらいから風が入ってくれます。
この風があれば今年の猛暑は乗り越えられそう!

暑い昼間は、シーツを畳みの上に置き、ゆっくりと操体。
からだと対話しながら快適感覚をききわけています。

そして、快適感覚がききわけられたら、心からからだに感謝をします。
本当に心からの感謝をするのです。
この感謝の気持ちがもっとも大切。

最近、やっとそのことに気がつくようになりました。
その思いの深さにからだは反応するようです。

さあ、これからからだとの対話を始めます。
今日は、ここまで。ごきげんよう! 

2010/07/27

矜持

あついですね。

今日から、少しずつブログを書いていきたいと思います。
先々週、東京操体フォーラムのブログに載せたものを、織り交ぜながら進めたいと思います。


それでは・・・・・

さて、いきなりではありますが、自分探しに当ててみたいと思うのです。

何を今更!

と思われるかも知れませんが、操体の世界に飛び込み10年目。そして、新たに医療専門学校に通い始め、2年目。

それ以前に、20年の芸術活動。

未だに独立出来ず、フラフラ。

一体何してんの・・・自分? 

もう一度自分探しすることで、人生のグランドデザインを産み出すヒントが見つかるかも・・・

と、のっけからギアをトップにいれ突っ走ってみたくなったのです!

まずは、生い立ち以前に遡りましょう。

私が生まれたのは、1954年(昭和29年)。四国愛媛の山奥にある神社の社務所。

まだまだ、戦後の香りが漂う、高度経済成長以前の胎動期。

その頃、もっとも恐怖を感じていたのが、祖父。

この祖父は、私の父・清明の父親。

私の父は、結婚し養子として、野口→佐伯へと姓を変えました。

ですから、普段はこわい祖父と出会うことはないのですが、正月などの祝い事では、どうしても会うことになるのです。

この祖父も神社の神主(川上神社)。

神社の境内ウラに古墳(7世紀中頃の終末期古墳)がありました。

古墳は、道後平野を見渡すことのできる場にあり、その地に、川上神社は、伊予を統括していた河野通久によって移されたと言われています。

応永四年(1396)のことです。

その後、河野氏の衰退は著しく、土佐の長宗我部氏の侵攻の前になすすべ もない状態で、永禄11年(1568年)ついに長宗我部氏に降伏。秀吉により河野氏の所領は没収され、河野通直は安芸国竹原に移り、河野氏は滅亡しました。

河野氏が滅亡後も松山藩主・松平氏の祈願所となり、地域の氏神として今日に至っております。

と書いて、初めて父方の家系を知ったのであります。

とにかく、日本史が大嫌いで常に赤点・・・少年のころは、最も知りたくない分野。

ひとたび知ると、とんでもない世界に入り込み,封じ込められそうな予感。

何となくパンドラの箱だったのです。

しかし、開けてしまいました!!!

さあ前に進みましょう、そこで、思い出してきました。

相変わらず、ノー天気でおバカさん高校生活をエンジョイしている私に、

「野口の家系はのう、代々松山藩主を教えよったんぞ!(ちいとわ、そのこと自覚せい=少し自覚しなさい)」かっこ内は行間。

と、見るに見かねて父親が一度だけ私に喋ったことがあります。しかし、それを言っちゃあ、おしまいです。

そして、それを書いちゃもっとおしまい。

まあ〜そういう訳で、おしまいになりました。

で、前に進めないのですが・・・

まあ〜とにかく・・・サイドブレーキかけながらでも、前に突っ走る!

父親の家系には、400年以上神社を守り続けているという矜持が存在していました。これは、一種独特のものです。

どうやら幼いなりに私はそれを感じ取っていたようです。

その矜持が漂う祖父に、幼い私はとても怖くて近づくことが出来なかったのです。

何しろ、白装束に白髪、胸元まで伸びる顎髭も真っ白。

そして、めがね越しの眼光の鋭さ。

私は、物陰にかくれて、祖父に会わないようにしていました。

あの時の感覚は今でも生々しく私のからだの中に染みこんでいます。

祖父は、愛媛新聞の編集長をしており、歯に衣着せぬ性格の持ち主。ある時、社内で起こった良からぬ事を摘発し紙面に記載。

もちろん首(くび)となり、その後は、地元に帰り郵便局長として仕事を全うしたそうです。

400年継承したサムライ魂。

当時、このような魂をもった人々は数多くいたと思います。

思い返してみると・・・・・いました(すみません、身内です)。

末っ子である私の父親が最も尊敬し、怖がっていた長男の晃(あきら)叔父さん!

この叔父さんが祖父の血を一番濃く引き継いだ人物だと思います。

私の父親が一つ上の兄とけんかをし、父親が馬乗りになって、「ボカスカ、ボカスカ」。

もちろん、子供の頃です。

それを見ていた晃(あきら)叔父さんは、木刀で父親の頭を一撃。

父親は、あわれにも失神。

意識が戻ってきた父親と、兄を神棚の前に連れて行った晃(あきら)叔父さん。

「清明(私の父親)、すまん。」

と、正座したまま、短刀を抜き出して,自らの左前腕部を斬りつけたのです。

幸い、橈骨で短刀はとどまった為、動脈が切れるだけの重傷で済んだそうです。本人は本気で腕を切るつもりだったのだろうと思います。

そんな晃叔父さんは、戦争に行っても部下を守るため、平気で上司を殴りました。晃叔父さんのお通夜の時、その部下の方が、しみじみと涙ながらに話して下さいました。

叔父の数々の武勇伝は、私が幼い頃から聞かされており、私にとってヒーロー。

私は、とてもこのような事はできませんが、祖父や叔父と同じ血が流れていることの矜持。

これを忘れては、いけません。

戦後、アメリカン・ポチ化して気がついてみると、家はツーバイフォーのアメリカ式建築、キンコーズ、マクドナルドが、一等地を買収。

私の通う四ッ谷の一等地などは、アメリカの宗教団体に押さえられています。

子供の体型もアメリカン様肥満が目立ち始めています。

このままでは、1万5000年前から続く縄文文化を基礎とする日本文化がわずか半世紀で、アメリカンウィルスにやられてしまいます。

とは言え、私一人で何が出来る?

出来ることはあります!

日本思想の源流・相似象を研究された医師・橋本敬三先生が、体系化なさり、三浦寛先生が確立されておられる操体。

この至宝とも言える操体の継承であります。

矜持を持って、日本刀で腕を切る気概でやることであります。

ここまで書いて自分探しが出来ている自分に気がつきました!