2010/08/31

からだの設計にミスはない 写本(柏樹社p42〜43)

無事、東京操体フォーラム in 京都は、終了いたしました。
参加人数は、初日38名、二日目42名。
大徳寺・玉林院の20畳で暑い中、熱い講演の二日間でした。
後日、少しずつその内容を書くことに致します。

その中で、不思議なことが起こりました。
故アンデイー・フグさんのお墓がこの大徳寺にはあります。
K1で一世を風靡したアンデイー・フグさんの親友が、我々操体の同門・平直行さんです。平さんは、総合格闘家の草分けで、人気漫画・グラップラー・バキのモデルでもあります。

その平さんが、「今日は、絶対アンデイーがここに来るから!」と何度も、何度も講演前から喋っておられました。

そして、講演が始まり30分位してもアンデイーのセコンドについたお話をしていました。
すると、ヒラヒラと一匹の蝶が、入って来ました。
すかさず平さんが、
「アンデイーが来た!」
私も、あの蝶を見た瞬間、平さんと同じ事を思いました。参加者の多くもそう思ったことでしょう。

その蝶は、何度も平さんの回りを飛び交い、庭に出ては、再び平さんの回りを楽しげに舞っていました。
何度かそれを繰り返し、お名残惜しそうに帰って行きました。

それ以来、蝶が尋ねて来ることはありませんでした。

ただただ、平さんに恐れ入ったのです・・・

それでは、写本に入りましょう。
息を呼く

今の民間療法でもね、気持ちのよい方法でなおしてくれる人ってあんまりいないようですね。
「痛いのがまんしろ、これくらいのこと何だね」
とか何とか言いながら、ボキンボキン、ジャリジャリ、チクリチクリ、だもの。これじゃまったく生きた心地しないよね。

そうじゃないんだ。自分が一番気持ちのいいようにしてもらえば治るんです。一番気持ちのいいようにということは、悪い方から良い方へ戻すことで、戻すのは実に気持ちのいいことなんですよ。

ところがね、これにもやり方の上手、下手があって、いくら気持ちの良い方に引っぱっていくといっても、あんまり気張ってエヤーとばかりにやったって、うまくいかない。
そうじゃなくてね、フワーと、水の中に浮かんでいる水草を引っぱってくるように、スウーと動かせばいいのです。
コースにさえのれればうまくゆくんだからー。

それもね、必ず息を呼きながらやるんだ。
息を呼きながら動かさないと、からだを壊してしまう。
この「息を呼く」ということにもね、ちゃんと法則があるのです。

例えば、けんかして、人をぶんなぐる時に、げんこつ振り上げて、息を吸いながらぶんなぐることは出来ない。出来たとしても、人を圧倒するほどの打撃を与えない。
やっぱり、コンチクショーとばかりに息呼きながらでなきゃ、力が入らない。

<大リーグのイチロー選手が、ボールを叩く瞬間の写真を、よく見ますが、必ず両頬をふくらませています。
私も、負けじとフィトネスクラブで、チェストプレスのマシンを使う時は、鏡を見ながら両頬をふくらませています。
さあ〜、これからフィトネスに行って来まあ〜〜す!>

今日は、ここまで、それでは、ごきげんよう!

追申:たにぐち書店の「からだの設計にミスはない」ではなく、柏樹社の本を写本し始めましたので、ページ数が変わりました。まあ〜内容は同じですので、どう〜て事ないんです。

2010/08/26

からだの設計にミスはない 写本なし

大徳寺での東京操体フォーラムin 京都の準備のため、あすから、30日(月)までは、この日記をお休みいたします。

今日も、その準備のため、あまり時間がありません。そのため、今回は、写本なしにいたします。ご了承ください。

フィットネスクラブで鼠頸部(ソケイブ)を少しずつ柔らかくしているのですが、柔らかくなっていくに従って、肩甲骨の可動域が増えているように思います。
脊柱を介して肩甲骨と骨盤は連動しているため、お互いが影響しあっているのがよく分かります。
この感覚をもっと実感でき、数値にでも置き換えることができる方法があれば、面白いと思っています。

機会があれば、インストラクターに伺ってみます。

今日は、短いですが、ここまで!
次回は、大徳寺でのフォーラムの様子をお伝えいたします。

2010/08/25

からだの設計にミスはない 写本(p53〜54)

今日から、専門学校の授業が再開されました。
約1ヶ月の夏休みを終えて、クラスメートの元気そうな笑顔を見ると、ホッとします。

フィットネスクラブで連日からだを鍛えていたため、「あっ、佐伯さん。元気そう!」とか、「若返ってる!」とか・・・

もう〜、おだてられると、木にスルスル上る方ですから、
「はっはっ、目指せ30代のからだよ!!」
まあ〜、言わなきゃいいものをついつい喋ってしまいます。
実際、30才代のからだには、半年程でなりそうな予感はします。
そうすると、気持ちの方も若返り、相乗効果。本当にこれからが、楽しみです。

今日は、フィットネスクラブの第三回目の体組成分析カルテの日。
これは素足で、あるマシーンにのり、両手でマシーンの
2つの棒状ハンドルをつかむだけで、身長、体重、筋肉量、体脂肪量、体脂肪率、等々からだの有り様を数値に置き換えてくれる優れもの。

これで顕著に分かったことは、バランスが良くなったことです。
最初のカルテでは、左上肢の筋肉の発達が高、に対して右上肢は標準。これは、高校、大学と野球で素振りをしたためです。
右バッターは、左手を主にバットを振ります。これを当時、毎日のようにしていたものだから、左右差が顕著になったのです。
また、このカルテでは、体幹は標準。両脚はやや低。

二回目のカルテ(2週間後)になると、両上肢は高。体幹は標準。両脚はやや低。

三回目の今日は、すべて標準になっていました。
確かに左右差がなくなり、足がしっかりしてきました。

わずか1ヶ月でこれほど顕著にからだが変化していくことに、静かな感動を覚えます。それでは、写本。

ふと気がついてみたら、敵をやっつけるためにつくった凶器で、自分がやられていることに気づいて大あわてだ。こんどは又、その方の対策も講じなければならなくなったってわけです。
これじゃもうイタチゴッコですね、ただただ忙しくて疲れるだけー。

薬なんかのまなくても、こっちが黴菌に対する抵抗力を回復しさえすれば病気は治る、ということに気がつかなくちゃなりません。そして、まず何んたって大切なことは、からだの
バランスを崩すような生活をしないということです。生活がまちがっていたら、あの息・食・動・想の法則にはずれていたら、まずその間違いを正すこと。生活の歪みさえ正せば、病気は自然に治ってくるんだ、ということです。

更に言えることは、自然(人間のからだを含めて)の動きというのは、みな、元に戻りたい本能をもっていて、ひとりでにそういう動作をしているのです。
だから、何もしなくっても、原始感覚の命ずるままに動いていたら、いつのまにか、治っていることだってある、ということです。

<生活を正す・・・・重い言葉>
今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/08/24

からだの設計にミスはない 写本(p52〜53)

今日は、東京操体フォーラムin京都の看板と講演される方々の名前を書くことができました、ありがとうございます。

昨日は、高校野球部の後輩にあたる方とお会いできました。
同じ監督、部長の教えを受けた仲間ということで、話もはずみ、楽しい一時でした。
今後とも、長いお付き合いができるようにしたいものです。

高校野球といえば、今年の興南高校の強さは圧倒的でした。
スポーツ新聞を読んでいると、夏の大会決勝戦で、1イニング7点以上を入れたのは、60年ぶりで、松山東高校以来、と出ていました。

この松山東高校が、私の母校。旧制松山中学、夏目漱石が赴任し、「坊ちゃん」の舞台となったところです。
正岡子規が野球を伝えた伝統校ではありますが、現在では、県予選ベスト8までいけば十分と言われる程度の力量。

60年前に、何故全国優勝できたかというと、戦後の教育改革により、松山中学から、松山一高へと改名。その当時、野球は強く、常に松山商業は好敵手。常に、県の決勝で相見えていたそうです。
ところがその強豪校が、合併することになり校名を松山東高等学校としました。昭和24年9月のことです。
まあ〜横浜高校と東海大相模が合併するような・・・そこまでは、いきませんが、当時とすれば、野球戦国史が大きく塗り代わる出来事だったようです。

そんなわけで、全国優勝が可能だったようです。
この優勝は、松山東高等学校の優勝であり、松山商業高校の優勝でもあるので、松山商業高校の優勝回数に含まれています。

さて、それでは写本を始めましょう。

薬というのは、確かに黴菌の繁殖をおさえる役割をもっているから、その黴菌をやっつけて、それから受ける害毒を少なくすることはできても、わたしたちのからだそのものが、その薬によって良くなるわけじゃない。
確かに黴菌は死ぬかもしれないが、同時に自分のからだにも害があり、のめばのんだ分だけからだが壊れていって、こっちの正体のほうまでころしていくということにもなる。

例えば、黴菌が百匹、攻めてきたとする。
その時にね、その中の六十匹をそこで殺せば、あとの四十匹がそこをかいくぐって入って来ても、こっちは大丈夫だという状況になっていればいいんで、敵を一匹でも入れまいとしてかかると、そりゃもう薬がいくらあったって足りやしない。全滅させるまえにこっちの方がぶっ倒れてしまう。

もともと、人間のからだは、少々の黴菌が入っても大丈夫のようにできているんだけれども、そのからだの基本構造が歪んで崩れてきているものだから、ちょっとの黴菌にもすぐやられてしまうことになるんだ。
やられて病気になるというと、人間はその黴菌の方にばかり気をとられて、そいつを如何にしてやっつけるか、ということに頭をしぼる。
そのことに対しては、あれやこれや、あらゆる方策を考え、実行しようとするが、一番肝心のからだのバランスが崩れていることには目を向けようとしない。
いくら最上の方策・作戦を巧みに展開して敵をやっつけてたとしても。敵の数は無制限だ。
次から次と、いろいろな敵があらゆる方向から攻めてくる。やっつけもやっつけてもきりがない。

<橋本先生は、西洋医です。しかし、東洋医学、民間療法を研究され、西洋医学の根本的な間違いを平易な文体で書いておられますが、まさに真理を諭されていると思います。
昨日もいいましたが、フィットネスクラブに通いはじめ、からだの歪みがとれてくると、気になっていた、頬のたるみが徐々に回復してきました。
美容外科では、頭部の皮膚を持ち上げ、頬のたるみをとるかもしれません。

そんな必要はないのですね、暑い夏は気持ちのいい汗をかき、全身を無理なく気持ちよく動かしていれば、いつの間にか、頬のたるみなんてとれてくるのです。
頬のたるみは、単なるサイレン。全身の歪みを気持ちよく取っていくと、サイレンの音が小さくなるのです。>

今日はここまで、
明日からは、専門学校が始まります。そのため、夜にこの日記を書くことになります。写本の量は少なくなり、一日の出来事を多く書くようになると思いますが、お付き合いの程、宜しくお願いいたします。
では、ごきげんよう!

2010/08/23

からだの設計にミスはない 写本(p51〜52)

身の回りの整理が出来てありがとうございます。
まだまだ暑い日が続きますが、暑い日には汗をかき新陳代謝を良くして、しっかり水分を補給すれば、快適!

何とか、エアコン、扇風機なしでやれています。
これも、フィットネスクラブで連日ストレッチを中心に、無理のない体力づくりに励んでいるからだと思います。

正直にいいますと、この数ヶ月精神的にへこんでいたのです。
そのためか、血圧が上がり、腰痛を1ヶ月煩うという今までに経験したことのない状況だったのですが、隣人の勧めで
フィットネスクラブに通い始め、精神的なへこみが、汗と共に流れていきました。

そうなると、同時相関相補性。皮膚につやが戻ってきます。どうも、心とからだの有り様を示しているのは、皮膚のように思います。

まもなく、たにぐち書店から、我が師匠・三浦寛先生の操体臨床の要妙パート2が出版されます。
この内容は、操体臨床の皮膚へのアプローチです。

三浦先生の17年間に及ぶ皮膚の研究の集大成。
と思いきや、パート3,4,5があるそうです!!
今後の操体を導く教本になることは、間違いありません。

それでは、写本に入ります。今日の内容は、エリマトーデスという、皮膚の病気を持った女性のお話。

  まず生活のバランスを

いつだったか、エリマトーデス(紅斑性狼搜瘡)の女性が受診に来た時、その人の生活ぶりを聞いて、ほんとうに、びっくりしてしまった。何せ、香の物だろうが何だろうが、何でもかんでも砂糖をぶっかけて食べる。チョコレートは大好き、
紅茶、コーヒーはどんどん砂糖を入れて飲む。肉や魚は多食し、ウズラの卵は日に十個は欠かさない・・・。

手足の皮が赤むけして、物はつかめず、歩けずで、大学病院に何年もかかってきたと言うが、こんな食生活をやってたことには、どんな薬のんだって、どんな治療したって治りっこないよね。

私はまずこの人に、例の如く、からだの基礎構造の歪みを調整した上で、あの四つの基本行動、息・食・動・想の自然法則を説明して、実行するようにすすめましたら、四回も来たでしょうか、すっかりよくなって、これには大学病院の方が驚いちゃって、「大変いいことだが、何でなんかわからない」と言っていたそうです。

とにかくね、たいていの人がそうだが、病気にかかると、すぐに医者に行って、注射をうってもらい、薬をふんだんにもらう。そうしなきゃ病気というものは治らないかのように皆思い込んでいるようだが、そうじゃない。

<以前にも書きましたが、このエリマトーデス(紅斑性狼搜瘡)の患者さんの例の如く現代医学では、多くの病気が原因不明です。
私は、薬を基本的には毒であると思っています。症状をおさえるだけの手段。息・食・動・想の毎日の生活のあり方を、今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。>


今日はここまで、それでは、ごきげんよう!

2010/08/18

からだの設計にミスはない 写本(p48〜50)

今日は、甥っ子が愛媛からやって来ます。
ところが、甥っ子、ケイタイを忘れてしまい、公衆電話から今さっき連絡がありました。
それでは、これからハチ公前に向かえにいきます。

甥っ子に東京案内できてありがとうございます。

息・食・動・想

文明ってね、人間がうまいことを考えて、いかにも便利になったが、どうもそこには自然の法則と合わないことがたくさんある。

生命体であるかぎり、自然環境に適応するように出来ているはずであるが、人間は他の動物と違って、知識にたよって判断しようとするので、どうしてもその生活のあり方が自然の法則にはずれやすいともいえる。

人間が生命活動を全うして生きていく様は非常に多面的なものであるが、自分に許された自然環境及び人為環境の中で適応し、自己責任として意識して営まねばならぬこと、絶対に他人に代わってもらうことの出来ない活動が少なくとも四つあると思う。

すなわち、呼吸、飲食、身体運動、精神活動(息・食・動・想)。

この四つの活動と環境との関連の上に人間の健康が維持されていく。言い換えれば、毎日の自分の生活が自分のからだをつくっているということなのであり、毎日の生活のあり方、つまり、一人一人のこの活動の営み方によって、各人のからだのあり方、健康状態がきまってくるということです。

だとすれば。私たちの生活をより健康で幸福なものにするには、この四つの活動の一つ一つをより深めていかねばならないが、それと同時に、これらはお互いに関連し合っていて、どれ一つ不十分でも健康といえません。

環境と生活態度とは同時相関相補的に連動しているのだ、ということを肝に銘じておかねばならないのです。
たとえ、からだを正常に動かしても、偏食したり呼吸が浅かったとしたら、やっぱり病気にもなりますし、無理な労働をしてからだに歪みが出来れば、たとえ、他の活動をいくら念入りにしようが病気になる、ということです。

故に一つ一つの営みの自然法則を究めて、それらを明らかにすること、そしてそれらを総合した全体的な目で生活のあり方を検討しなおしてみること、私たちが健康で気持ちよく生きていく上で、このことは常に心しておかねばならないでしょう。

私もこの「息食動想」について、個々に、あるいは全体的に考え続けてきましたが、今はっきり言えることは、個々の健康法に関しては昔からそれぞれの人々が開発してきているが、総合的アイデアが今までに完成していなかった、ということなんですね。
このことについては後章でくわしく述べるつもりです。

<この「息食動想」における自然法則は環境と対応し、同時相関相補的に連動するという思想は橋本哲学の基礎です。
この4つの自己責任の営みをそれぞれ及第点そして、環境も及第点ならば、健康な生活が送れるということです。
そして、医療従事者はそれぞれにおいて、高い得点が要求されることは言うまでもありません。切磋琢磨すべし!>

今日は、ここまで、あすから出張ですので、23日(月曜日)から日記は再開いたします。
それではごきげんよう!

2010/08/17

からだの設計にミスはない 写本(p46〜48)

今日は、トイレ掃除が出来ました、ありがとうございます。

さて、昨日は“救い”についての写本でしたが、今日は“報い”についての写本になります。

“救い”と “報い”

自分のそうした思わくや行為は必ず報いられて、自分の上に遅かれ早かれ現れてくる。この地上に私たちが生きている限り、私たちは“報い”を避けることはできない。
この世は因果応報の世界なのだーと。

自分のやったことは、いずれそれなりに必ず報いられるということ、これは言い換えれば、神は人間に無限の可能性をお与え下さった、ということです。
欲望が大きければ大きいほど、その可能性の奥行きは広く深くなるということです。

自分の行為次第で、どんなにでも現れてくる。例えば、人間が本当の自然法則を知らされたとしても、それをとるかとらないか、選ぶか捨てるかは全く本人の自由である。
その自由を人間はある時期にかちとってしまった。失楽園ですね。
そのために悩んで苦しんで、法則に従えばラクラク生きていけるものを、やたらに反発するからバチがあたる。

私はこれもしょうがないことだと思う。この世は“報い”の世界なんだからー。ただ、どっちを選ぶということで、その選択の仕方で“報い”が変わる、ということだけは知っておく必要があると想いますけどね。

—この“救い”と“報い”を端的に言うなら、“救い”は絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何者もくつがえすことのできない久遠の真理である。
“報い”は現世における歩み方の努力に対する相対的評価である、と言えるでしょうか。

いずれにしても、この“救い”と“報い”に対するはっきりとした自覚は、自分を如何に解放してくれたことか。
あれほど神経質で潔癖であった私が、あの時以来、俄然のん気になり、すっかりルーズになった。

何やったって大丈夫だ、俺がその報いをうければいいんだからー女郎買いやら道楽やらを平気でやれるようになったのも、実はこの時からなんです。それがまあ、女房を苦しめたなんていうことになりゃ、何ともシマらない話だけどもね。

<20数年前にこの一節を読んだ時、あまり理解出来ていなかったように思います。
しかし、今になってある程度はわかってきました。現世にいきている以上、「自分のやったことは、いずれそれなりに必ず報いられるということ、これは言い換えれば、神は人間に無限の可能性をお与え下さった、ということです。
欲望が大きければ大きいほど、その可能性の奥行きは広く深くなるということです。」
を心に抱き、大きくはばたきたいものです。>

今日は、ここまで、それではごきげんよう!

2010/08/16

からだの設計にミスはない 写本(p41〜46)


“救い”までを写本することが、できましたありがとうございます。
昨日は、ラストサムライと呼ばれておられる島津健治先生の火縄銃演舞を見てきました。古武道の全国大会でトリを演じられ、マイクで火縄銃の説明をとうとうとされるそのお姿は、まさしくラストサムライ。
この先生は、古来から伝わる武士の医術の伝道者。
すごい技術をお持ちです。
我々は学ばねばならない事が山積みなんです!

今日の写本は少し長め。
橋本先生の若き日の苦悩の末、“救い”と“報い”の違いをつかみ取った、言わば橋本哲学の根底を描いた箇所です。
今日は、その中の“救い”について写本いたします。

    “救い”と“報い”

人間の設計にミスはない、と私はしんじているが、これは又、私たちはもともと救われているんだ、初めから救われているんだ、ということでもあります。

宗教家の中にはね、がんばれ、がんばれ、そうして悟ればお前は救われるんだと、あたかもがんばらなければ救われないかのように言う人がいるが、そんなことはないんですよ。

悪人であろうが、怠け者であろうが、みな救われているんです。それでなきゃ、私なんぞは浮かばれない。
私はだから、いつも患者さんに言うんだ。
「もともと救われているんだから、安心してやりなさいよ」とね。
そして同時に
「いやなら無理しなくてやらなくてもいいよ」と言う。
「そのかわり、ひどい目にあっても知らないよ」と。
少々強迫じみて聞こえもしようが、こういうことを、私は若い頃から常に自分に言い聞かせ、自分自身に問いかけながら、今まで生きてきたのです。

私は中学時代を会津の伯父の家に厄介になってすごしたが、中学の後半の頃から猛烈な自己嫌悪と劣等感に悩まされた。
四年生の時だったか、弁論大会で「飢え渇く」という演題で一等になり、その時の賞品の硯函が今の手元に残っていて結構役だっているが、その演題の如く、私はその頃、苦悩の底で喘いでいたんです。

ある日、教会で山室軍平先生の講演会があり、友だちに誘われて聴講した。先生の最も得意な十八番「神は愛なり」という説教でありました。万有を創造し、生命を発現して、われら人類を生んだ神の愛というものは、無我の親心の慈愛そのものである、という理を、年老いて捨てられにゆく老母が、背中の上から息子の帰路の道しるべに木の枝を折って来たという、楢山節考のような話を引いて、この親心こそ神の愛なのだ、生命の生みの親を忘れた人々よ、忘れられても忘れぬ親の愛を覚えて神に立ち帰れ、というような趣旨の話でした。
先生の名調子にすっかり感激させられて、聴いているうちに涙がとめどもなく流れたのをおぼえております。

傍らで大嫌いな数学の教師が冷たい視線を眼鏡の下から注いでいるのを意識しながらも、「神の愛を信じる人は、手を挙げてください」と言われた時、私はどうしても挙げないではおれませんでした。
そのくせ、終わってから「手を挙げた人は残ってください」と言われた時には、草履をつかんで一目散に逃げて帰ったものです。

それでも妙なもので、このことが縁になって、いつの間にか救世軍に出入りするようになりました。
高校受験の浪人時代に、大きなラッパを吹きながら辻説法に従った、仙台芭蕉の辻の夜のことを想い出します。

その頃の苦悩は深刻で飯も喉につかえて通らぬ日がたびたびありました。自己批判やら及第の不安やら、恋愛のことやらが、二重にも三重にもなって私を責め立て、宗教などどは無関係に平気でやりたいことをやっている人たちが羨ましかった。

当時の私にはすごく潔癖なところがあってね、特に「性」の問題は深刻だった。女を見て色情をおこす者は、すでに姦淫したことになる、なんて調子に責め立てられると、こっとはもう立つ瀬がない。
とにかく何としても“潔めの神理”、救世軍には“潔めの神理”というのがあって、それがわかれば罪を犯さないですむというので、私はもうガムシャラに、それをつかもうとあがいたものでした。

そんな苦悩は今でこそ笑ってこそすまされもしようが、その頃の私としては必死だったんです。それだけ若くて純粋だったのでしょうか。

祈っていてね、時には「ああ、わかった」と感じたこともあったし、パアーと水が溢れ出してきたような奇妙な体験もあったけれども、どうしてもそれが長続きしない。どうしても腹の底からわかったような気がしない。

自分が罪悪深重の凡夫であることはよくわかる。神の愛もわかる。キリストの贖罪もわかる。しかし私は、キリストを救主と信ずることによって、いったん赦されても、又ぞろ繰り返し罪を犯すことから脱け出せない。
懺悔しても悔いあらためても悔いあらためてもすぐ罪を犯す。
この生身の体をもち、五官の貪欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、どうしてもこれを制し切れないで、ついつい悪いとは知りながら負けてしまう。

こうなってくると、せっかくのキリストの贖罪も利益も屁にもならない。死ぬ時うまく信仰状態にあれば天国行きも可能かもしれないが、ちょうど罪を犯しつつクタバッたらそれこそ最後だ、天国行きはオジャンである。

何とか罪を犯さぬような救いをうけることは出来ないものか。
こうなりゃ誠に申し訳ない限りだが、神を呪って死んでも救われる道はないものか、などとヤケッパチな気分にもなったものでした。
こうして私は、行きつ戻りつ五年間苦しみ続けました。

私が盛岡の牧師、平野栄太郎先生にめぐりあったのは、もう医学生時代も後半に近い二十三才の時でした。
全くの無名の人でしたが、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロボロになるまで読みつぶしたという平野牧師から、私はエペソ書の第一章を示されて、「ここにこう書いてあるじゃないか」と次の聖句を教えられたのです。

『世の創(はじめ)の前より我等をキリストのウチに選び、御意(みこころ)のままにイエス・キリストに由(よ)り愛をもて己が子となさんことを定め給へり』

私はこの時、「ああ、そうか、そうだったのか」と素直にうなずけた。なあんだ、今までがんばれ、がんばれと言われてがんばってきたけれども、別にがんばることもなかったんだな、俺はもう初めから救われていたんじゃないか。

俺のこの生命は、俺が生まれる前からもうあったんだな。だとしたらこの生命は神と同格の永遠の生命そのものじゃないか。何もこんな罪を犯したの犯さないのとジタバタするようなことなんかないじゃないか、と。

—その時のうれしさ、喜ばしさっていうのは、とても私には表現できないね。
自分が救われたいなんて望む必要はさらさらないんだ。
自分が何をしようが、そんなことは問題じゃない、これほどラクなことはないじゃないか、と。
そして、私はこの“救い”ということが、自分の行為や思わくとは何の関係もない、ということを知ると同時に“報い”ということをも平野先生から教えられた。

<5年間も悩み続けられたという誠実さ。本当に頭が下がります。
私には、これほどの誠実さがあるのか・・・医療家として、持たなければなりません。
そして、救われていることに感謝し、その愛を感じることが大切だと思います。
まだまだ私は橋本先生が23才のころの境地には達しません。
出来る限りの努力は、この写本であろうと思います。260ページありますので、数ヶ月かかりますが、がんばらず・・・
やくばらず・・・いばらず・・・しばらず・・・やりたいと思います。>

今日は、ここまで、それでは ごきげんよう!

2010/08/15

からだの設計にミスはない 写本(p38〜41)

今日は、島津先生の火縄銃演舞を見学にいきました、ありがとうございます。

人間の設計にミスはない

私たちの先祖はね、古来からもうチャンとわかっていたんだ。
人間が病気になったり治ったり、あるいは健康であったりするのは、それはもう人間の成り立ち自体がそうなっているのだ、と。

大自然の原理として、人間は誰でも健康で幸福に一生をおくれるように、チャンと設計されているのだ。
それが実現されないのは生き方の法則からはずれているためで、この法則にそむくと心身の姿と動きに歪みが生じ、心身のバランスがくずれて病気になるのだ、そして又、その歪みを正してバランスを取り戻せば、病気はなおるのだ、と。

人間のからだはそういうふうに出来ているんです。
もしそうでなかったとしたら、病気になったら治るはずがないし、その見込みもない。
治るということは元に戻るということ、設計通りの元のからだに戻るということである。
そのわけさえわかってしまえば、元へ戻る、崩さないという配慮さえ怠らなければ、私たちはもう十分に満足して、気持ちよく愉快に毎日がおくれるんだということです。

そのように、人間のからだが、チャンと設計されていて何一つミスはない、ということになれば、その設計を勉強しさえすれば、誰でも優等生になれるということだが、たとえ勉強なんかしなくたって、からだ自体がそのように出来ているのだから、どうにか落第点さえとらなければ、まず日常の生活には不自由しないようになっている。

その設計には、というか、自然の法則には、ある許容度みたいなものがあって、その範囲内で生活している限りは、何も心配することはないというわけです。

だから私は、いつも口をすっぱくして言うんだ。落第するな、その許容度からハミ出すな、と。
許容度の中で最高に燃え上がって、仕事なり、スポーツなり、セックスなり夢中になるのなら、いくらでもやれ。
だけども、いったん許容度を飛び出すと、元に戻る働きが鈍ってバランスがくずれ、あっちこっちが歪んでくるんですよ、と。

じゃ、その許容度、つまり、どこまでが許されていて、どこからダメだというような何か規定みたいなものがあるのか、と聞かれそうだけれども、それはもう各人一人ひとり違うので、誰に聞くよりも、自分のからだに聞けばいい。

法則というものは厳としてあるんだし、その法則の中で許されている部分があるということだから、少しぐらいズッコケても、どうってことないんだ。
甘えさせておいてくれる幅っていうのがあるということは、ほんとにありがたいと思います。そうでなきゃ、私なんぞはとても生きていけない。
ヤレヤレ、私みたいなものでも生きていける、という安心感は何ものにも代えがたいものです。

甘えさせてはくれても、甘えすぎるとバチがあたる。いい気になって甘えていると痛い目にあう。
そこのところのケジメさえつけておけば、人生何も悲観することなんかないんだ。

及第点さえとらなければ、チャンと健康な生活がおくれるように設計されているんだし、たとえ落第点とったとしても、ちょっと勉強して及第点をとり戻せばいい。しかし落第点とらないようにした方がなおよろしいということですね。

<タバコが大好きな橋本先生は、90才の時、灰皿を取ろうとされて、転び大腿骨を骨折されました。
それを機に、入床生活をされるのですが、床ずれすることなく生活されたそうです。
ゆっくりとからだを動かし、快適感覚をききわけ、味わっておられたのです。
もし、骨折をされなかったら、100才まで生きておられた、と私の師匠・三浦寛先生はおっしゃっています。
気持ちよく生かせていただいていることに感謝!>
きょうは、ここまで、それでは、ごきげんよう!

2010/08/14

からだの設計にミスはない 写本(p36〜38)

今日は、部屋を100%整理出来ました、ありがとうございます。

病名がついた時はもう遅い

私たちのからだはね、基礎構造が狂ってきて、少し捻れたり曲がったりすると、てきめんに気持ち悪くなる。
そしてそれをかまわないでおくと、働きが悪くなる。それをもほおっておくと、しまいに本当の中のものがくずれたり、はれたり、腐ったり、様々な変形が見られ始めるのです。

そういうような段階、つまり、第一段階、気持ちが悪い、第二段階、働きが悪い、第三段階、中のものが変質する、というような段階があり、現代医学の病名っていうのは、中のものが変化し、機会が壊れたということが証明されて初めてつけられるんです。

ところが、皆さん方は医者じゃないから、俺たちは今、第何段階だってことはわからない。
だからちょっとでも気持ちがわるくなったら、病気になったと思うのは当たり前ですよね。

「先生、私昨日から肩がこって、目まいがして、吐き気がするんだけど、どこか悪いんでしょうか」
というと、
医者は、
「そうですか、じゃ、調べてみましょう」とレントゲンをとったり、脳波をとったり、小便や血液とったりする。
「みたところ、何んでもないな、別に異常はないですよ」ということになる。

それでは困るんだなあ。
自分が異常を感じたから出かけて行ったんで、これはもう医者がわからないだけの話です。
一番わかっているのは、おかしいと思っている自分の方なのだが、
「まあ、医者がああ言ってるんだから大丈夫だろう」とか何とか言って、そのままにしておくと、急にお腹に激痛が」走って、又病院へ駆け込むことになる。

すると医者は言う。
「何で、こんなになるまでほおっておいたんです。胆嚢炎だ。肝臓もだいぶやられている。もう少しで危ないところだった」と。

これが現代医学なんですよ。考え方がまるで逆立ちしている。悲劇だね。

だから、皆さん、自分で気持ち悪いと思ったら、この感じは自分にしかわからないんだから、自分で処理するに限ります。
どこが気持ち悪いんだか、いろいろ動いてみて探し出し、そこから気持ちよい方へうまく逃げればいいんです。
それで治っちゃう。
こんなうまいことないですよ。人間のからだってそういうふうにありがたくできているのです。

私たちの先祖は、それをもうチャンと知っていた。確かに先祖は偉かったけれども、それを我々バカ子孫がいつまでも気がつかなくって、怠けておって、今、私たちはバカであったその報いを受けているということですね。

<柔らかい文体で、現代医学を痛烈に非難されているこの内容は、本当に奥が深い。
最近の現代医は、聴診器を使うこともしなで、益々数値を気にしはじめ、しかも専門への分化が進んでいます。
橋本先生流に言えば、バカ子孫が気づかないまま、暴走しているように思えます。
我々操体の3代目が、どのように操体を展開してゆくのか、手腕が問われる時期にきています。>

2010/08/13

からだの設計にミスはない 写本(p32〜35)

今日は部屋の整理が8割出来ましたありがとうございます。
今日も写本を中心にどんどん進んでいきます。

西洋医学と漢方医学

人間というのは地上に立って生きている。二本足でたっています。立って動くことによって、からだの中がどういうふうに変化するか、環境とどういう関係を持っていて、どんな影響を受けているか、ということは、人間がいかに生きるかということと密接につながりあっています。

ところが、この二本足でたっている人間、立って動く人間を、現代医学はあんまり勉強していないんだ。

江戸時代末期に西洋医学が入って来て、昔の漢方医学は次第に駆逐されていくのだが、その西洋医学が入って来た時に漢方医が一番ショックを受けたのは、人体の解剖図だったんですね。それを見て、みんな腰抜かした。

漢方医学では、人間のからだの中の方をあまり細かく云々しなかった。従って中がどんなになっているかがはっきりわかっていなかった。小塚ヶ原 あたりの刑場で首を切られた罪人を解剖して、西洋から入って来た解剖図と較べてみると、まさにぴったり符号する。
実に詳細に書き込んである。それでびっくりして腰抜かしたというわけだ。

これはもう、昔から日本でやってきた漢方なんていうものよりも、西洋の医学の方が格段にすばらしい、ということでね、日本の現代医学が始まったことになっています。
漢方医はそれ以後すっかり衰えて隅の方へ押しやられてしまった。

そして今になって又、漢方、漢方と騒ぎ出した。ところが、今、週刊誌とか婦人雑誌とかで盛んに宣伝している漢方というのは、ごく浅い一面的なもので、本当の漢方というのは、そんなに易しいものじゃないんです。

私は現代医学で習わなかったことを、漢方から学んだ。そしてつくづくと思うことは、漢方の考え方の方が、現代医学の考え方より数段と高級だということです。

例えば、現代医学では、腹の中のどこそこが痛くなったら、そこの所を治すことの力を尽くす。
その個所を非常に詳しく研究し分析する。それに対して漢方医学では、からだの変わり方を見ているのです。
こういうふうに変わったら症状は悪いとか軽いとか、古い病気だとか新しい病気だとか、いろいろな変わり方の研究をして処置をする。

今、あなたが「お腹が痛い」と言ってお医者に行きますと、「ああ、これは急性肝炎だ」とか「慢性腎炎で治る見込みはありません」なんて言われます。
そして「これ、かまわないでおくと、だんだん役に立たなくなってくるから、新しい腎臓と入れ換えた方がいいんじゃないですか」と言われることもある。
それまでには至らなくても、「血液を洗ってやって腎臓の代わりにしましょう」なんて言ったりーまあ、そんなふうにまで現代医学は進歩しているんです。
だけども、そんな考え方、少しおかしいと思いませんか?

私の所にもいろいろな患者さんがやってきます。肝臓が悪いとか腎臓が悪いとか、眼が悪い鼻が悪いといろいろなことを言うんですよね。病院でそう言われた、それを治してくれ、と。

私はいつもこう言い返すんだ。
「それじゃ、あなたの肝臓、そこへ出して置いていって下さい。この次までに治しておきますから」とか、「今度痛みだしたら、小包にして送ってよこして下さい」とかね。いくらんなんでも、そんなことできるわけないですよね。

この立って動くからだと、からだの中にある物とが別な物だと思っているんです、現代の医学は。
そして皆さんもしらずしらずのうちにそんな考えになってしまっているんじゃないでしょうか?

<この節は、西洋医学と漢方医学(東洋医学)の違いを簡単に、橋本先生の臨床を通した見方で紹介しています。
西洋医学、東洋医学のどちらにも造詣が深い橋本先生が、長年の研究の末、このような結論に至ったわけです。
つまり、他人任せではからだは治らない、からだの声(原始感覚)をききわけ気持ちよさを味わうと正体に戻っていくという真理を説いているのです。>

今日は、ここまで、それでは ごきげんよう!

2010/08/12

からだの設計にミスはない 写本(p30〜32)

今日は、レポート作成が出来ました、ありがとうございます。
昨日は、余り写本をしていないので、今回は、写本をしっかりします。

原始感覚

人間のからだのバランスをとる中枢は脳髄にあるが、ここでからだ全体から伝えられてくる情報を受けて選択するのがこの感覚です。
からだのバランスがとれていれば、情報もスムーズに流れていて、こんな時は快調で非常に気持ちのいい状態なのだが、情報が何処かでつっかえたり、詰まったり、氾濫したりすると、からだに異常が感ぜられ、気持ちが悪くなる。
情報の通り道にそういう障害物が出来ると、すぐにからだの歪みとなって表にあらわれてくる。

またこの原始感覚が、伝わってきた情報を選択して、からだの動くべき方向を指示しているのに、「いや、そいつはダメだ」と、自分の意識や知識でもって拒絶すれば、やはりからだの何処かがおかしくなってくる。狂ってくる。

人間はこの感覚に素直に従っていれば、その心身の可能性を最高度に発揮することができるのに、ただ意識過剰のために、この感覚の働きが抑えられ、くらまされているのです。

だから、かえって無意識の時が一番バランスがとれている。
無意識の時は、この感覚が少しも邪魔されずにスムーズに働くからです。
その証拠に、ヨッパライはどんなにころんでも、たとえ階段から落っこちても、大きなケガはしない。
また、子供は無意識な動きさえすれば治るから、くすぐってやれば、すぐにからだの歪みがとれる。

くどいようだが、私の言う治療とは、あくまでも歪みを正体に、自然体に戻すことです。
戻すことさえできれば、その方法は何だっていいと思う。ただ、私が今まで長年模索し経験したうちでは、この原始感覚に従って気持ちよく動きさえすれば、“元の正体に戻る”という方法が一番いいと言うのです。

そして、もう一つ言わせてもらえば、今までの治療はみんな他力だ。確かに効いたという事実はあるけれども、結果的に効いたというにすぎない。

他力だとね、どうしてもコースが決まってくる。人間のからだは微妙だから、そのコースにうまくはまればいいが、はずれないという保障はない。
ところが、この治療法は他力ではなく、あくまでも自分で出来る。自分の原始感覚を頼りにして、痛くない方へ、一番気持ちのいい方へ動くんだから、よほどのことでない限り間違うことはない。
これほど簡単で、しかも確かな手応えのある療法はほかにはありません。
ほんとうにもうけものっていう気がしてならないのですがね。

とにかく生物が動くのは欲しいものを追いかけるか危ないものから逃げるかです。
気持ち悪かったら、そこから逃げて安全な方にゆけばいいし、あるいは痛いところ気分の悪いところを押さえてもらっていて、それが消えるように逃げればいい。
それには運動を分類してみて理解してから分析すればわかる。このアイデアが現代医学には欠けているのです。
<この原始感覚という言葉は、橋本先生の造語だと思いますが、この言葉の意味することは、非常に重要。
真理は、非常にシンプル。あまりにも真理を言い当てておられるので、“本当?”と疑いをかける方がおられるかもしれませんが、臨床を通すとその意味する真理に出会います。
“気持ちよさがあるのか、ないのかよく聞きわけて(原始感覚)あれば、味合う(治療)”です!>

きょうは、ここまで、それでは、ごきげんよう!

2010/08/11

からだの設計にミスはない 写本(p29)

きょうは机の廻りを無にし、整理できました。ありがとうございます。

原始感覚(昨日からの続き)

からだの中の変化に素直に反応する感覚、この感覚こそもっとも大事にしなければならないもので、いつでもそれを高めようという意欲をもって、鍛錬し磨き上げていくような心構えを私たちは常に忘れてはならないし、知識や文化もいいけれども、その知識や文化に誤りがあれば、それをこの原始感覚で見分けられるようでなければならないと思う。

<この一節は、さらりと書かれてありますが、実に奥深いと思います。
“いつでもそれを高めようという意欲をもって、鍛錬し磨き上げていくような心構えを私たちは常に忘れてはならない”とあります。
これは、からだとの対話を通して真理を感じ取ることを意味します。
この2週間ほど、私はフィットネスクラブに通い始めました。1年半ほど前の私からは、考えられないことです。
何しろ、京都の山奥で、一人暮らしのおばあさんが多く住んでいる集落にいたのですから・・・・
洗面所に鏡はありましたが、余り自分の顔、姿をゆっくり眺めるようなことはしませんでした。
どちらかというと、自然の変化に目が行き、私自身は自然の一部として同化している感覚でした。そのため、他人との会話を全くしない日もあったほどです。
また、この感覚は快適でした。

ところが、東京のど真ん中・世田谷に住むようになり、心もからだも少しずつ変化していったようです。世田谷は緑の木々が多いのですが、それでも、コンクリート、アスファルトに覆われています。そして、人々が溢れています。

このようなところでは、人々が自然。もっというと人のからだが自然。どうしても、からだに目が行ってしまいます。
街を歩けば、ガラスに映る自分のからだがやはり気になります。

そんな状況下でのフィットネスクラブ。
大きな鏡を前に自分のからだとゆっくり対話していきます。多くの人々が黙々とからだを動かしているなかでの、自分のからだとの対話は、楽しいものです。

そして、記録していた数値が徐々に上がっていき、からだが元気になっていくのが分かる、という感覚が非常に大切。
しかも、インストラクターの2日程、筋肉を休ませる事が大切であるという助言(これは、橋本先生の文章では、“知識”にあたります)を、しっかり守った結果、大幅に数値が上がりました。

この体験から、からだには宇宙の大法則が存在していると感じられるようになりました。
フィットネスクラブでのからだとの対話は、持って生まれた原始感覚を徐々に鍛えられる一つの方法だと思っています。>

今日は、ここまで。それでは ごきげんよう!

2010/08/10

からだの設計にミスはない 写本(p28〜29)

今日は、本棚を作ることができました、ありがとうございます。

では、写本を開始します。

原始感覚

医者を必要とするのは人間の世界だけだ。山や野に住む動物たちや、アフリカのライオンなんかに医者はいない。
ああいう野生の動物っていうのは、自分で自分のからだを治す方法を知っている。
自分の勘で治してしまうんですね。

<京都・美山の山奥で暮らしていた時、飼っていた猫のミミちゃんが、マムシに左前足を噛まれました。
その時、彼女は居間の静かな暗い場所で安静の状態。われわれ家族が見えるので、心地も良かったのでしょう。
何も食べず2〜3日ですっかり回復。
ペットと言えども、マムシがいるような環境で育つと、野生の勘が戻っているのでしょう。>

勘—私はこれを原始感覚ともいっているが、この感覚は本来人間にも備わっているものだ。
自分の原始感覚に従って、自分のからだに合った行動をとったり、食物をとったりする。
私たちの先祖は、まさにそういう生活をしていました。
やっぱり自分で自分のからだを治す知恵をもっていたんだ。
地震が近づけばナマズが騒ぐ。トウモロコシのような植物でも、その年の風の強さ弱さで根の張り方を変えるというが、そのような感覚を持っていたんです。

<京都・美山町は雪深いところ。1m50cm以上積もったこともあります。ススキに作るカマキリの巣の高さでその年の積雪を占っていました。よく当たりましたよ!>

そして、この天来の感覚はちゃんとバランスがとれていて、自然界の変化の中でいろいろな作用を受け、それに対して素直に反応しながら生きていくために、欠かすことのできない神からの授かりものなのです。

この授かりものを、人間は、進化するに従って、知識や文化が進めば進むほど、その方にばかり気をとられてしまって、もはや忘れ去ろうとしているが、この原始感覚が鈍麻して、しだいに知識偏重の生活に切りかわっていけばいくほど、私たちは健康な生活からしだいに遠ざかり始めているのだ、ということに気づかなければ、今に大変なことになると思えてなりません。

<現在、潰瘍性大腸炎という、大腸ガンの予備軍のような病気が、若者の間で急速に増えています。
この原因は不明。驚くことに、現代医療において、原因不明の病気が非常に多いのです。

実は、多くの原因を精神的なストレスと診ることができます。精神的なストレスを持つからだは、必ず歪みを持っています。また、歪み自体がストレッサーとなり、からだは愁訴として表現しています。また、この歪みは想は元より息・食・動にも反映しています。
あらゆる歪みを反映しているからだの歪みを診るのが操体です。

ところが、現代医療における潰瘍性大腸炎の治療法は、内科的薬物療法。
しかし、これらの療法をおこなっても、予後は寛解と増悪を長期にわたって繰り返す、とあります。そして、全大腸炎型では、10年以上経過すると癌化率が高くなる、といわれています。
ということは、現代医療では治せないといわざるを得ないのではないでしょうか?

今の若者は、自然の中で遊ぶという当たり前の行動をしてきたのでしょうか・・・・どうも、ゲーム機というバーチャルな世界に身を置いていたように思えてならないのですが・・・>

きょうは、ここまで。それでは、ごきげんよう!

2010/08/09

からだの設計にミスはない 写本(p26〜27)

今日から、訳あってたとえ、一日のうちに達成されるであろう目標を書き込み、しかも、それが達成される事を前提に、(することが出来ました)と過去形で表現し感謝することにいたします。

今日は基本的に休養日ゆっくりして、部屋を片付けることが出来て、ありがとうございます。
2点3壮の灸練習再開、ありがとうございます。
有酸素運動とストレッチ(特に肩甲骨)しっかり出来てありがとうございます。

それでは写本をはじめます。

操体法のひろがり

先日、市の部長級以上の職員の集まり数十人の前で講演したが、その時に特に私が強調したことは、やはり教育の面から入っていかねばならないんじゃないか。
学校の先生がまず子供たちに理解させ、子供たちが家庭に帰って親とともに実践していくというような地道な運動を展開しなきゃならないんじゃないかと、と。
幸いに教育長や衛生課長なども一生懸命な様子で、今に何らかの実際的な動きが出てくるんじゃないかと思います。

もっとも、高校の運動部、例えば甲子園の常連校・仙台育英高や、卓球で有名な古川市の祇園寺高などでは、3年前から生徒の健康管理にこの操体を取り入れていて、これをやるようになってからケガは激減するし、腰や肩の痛みを訴える選手も少なくなったと言っています。

それともう一つ、教職員組合の中からも動きが出てきています。原子力船問題で有名になったむつ市を中心にひろがっているようだが、うちの研究員をやったり、向こうから実修に来たりして、かなり熱心にやっているようです。
こうして、自治体や大学、教組やらが下から突き上げてくれれば、厚生省も黙ってはいられまいし、医学界も騒ぎだすだろうね、きっと。

<前日、述べましたように操体は、健康体操として普及(特に関西地区)しているようです。
しかし、操体はあくまでも、自然の法則に則した生き方です。
ここで出てくるのが、息・食・動・想という橋本哲学。
これは、人間が生命活動を維持するため、自己責任として営まなければならないこと、呼吸・飲食・身体運動・精神活動のことです。
これらには、自然の法則がありそれに従って生きれば健康が維持されます。しかも、100点満点である必要はありません、60点以上でいいのです。

簡単にいうと、このような思想です。

その中で、身体運動の法則を“般若身経”として説いています。
実は、この“般若身経”、奥が深く簡単に普及できるようなものではありません。
現在、三浦寛先生が一つ一つの動きを分析・統合しながら追求されておられます。
いずれ一般の方々に普及出来る様に、ある程度の形ができるかもしれませんが、まだまだ時間はかかると思います。>

今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/08/08

からだの設計にミスはない 写本(p25)

操体法のひろがり

それにね、遠野市が、あの「遠野物語」(柳田国男)で有名な所だが、一昨年から市をあげてこの操体をやっています。
この町は、国民健康保険が大変な財政負担になっていて、これではとてもやっていけないということで、「病人をなくして、みんな健康に」という運動を操体を中心にやっているのです。
これは岩手放送でとりあげられて、週に1度、半年かけて放送され、ずいぶん話題になったようです。

そして、この遠野市に影響されたのかどうだか、今度は石巻市や胆沢町がやりだした。
石巻市では、国保の関係者が、保健婦を使ったり、ボランテイアなんかをも総動員してやりだしたいというんですよ。

いつだったか、国保の会議があって仙台市の人がでかけたら、石巻の人に「なんだ、俺たちの方ではこんなにやっているのに、お膝元のお前の所はどうしたんだ」とハッパをかけられたとか。

ところがね、最近になってこの仙台市も動き始めたんです。今(1978年)の島野市長は革新系だが、私の所へ患者として来たこともあり、先日も私に「医学の原点に立って、市民の健康というものを開発していこう」と助役ともども約束してくれた。

仙台市は全国に率先して健康都市宣言をしており、健康都市推進局というのがあって、環境整備や福祉の施設づくりは、全国に先がけてどんどんすすんでいるが、いくら「健康・・福祉・・」と叫んで、その要請のもとに施設を充実させたところで、肝心の市民一人一人が生活の根本から改めていこうという気概をもつような運動にしなきゃ何にもならない。

<橋本先生がご存命の時は、このように市をあげて操体を健康作りの基本に据えようとする動きがあったようです。
ただ、現在それがどれほど続いているか、よくわかりません。

ここで、気になることは「操体とは健康体操」だと勘違いされることです。
操体は自然の摂理にそった生き方であり、健康体操ではありません。

自然の摂理にそった動きが、身体運動の法則。
これを、茶目っ気のある橋本先生が、“般若身経”と名付けられました。“般若心経”の心を身と置き換えられて、ニコニコ笑っておられたのだと思います。

ところが、この茶目っ気が一人歩きしてしまい、健康体操になってしまったのです。>

今日は、時間がないので、この辺でお開き!
明日、この続きを書きます。では ごきげんよう!

2010/08/06

からだの設計にミスはない 写本(p24)

操体法のひろがり

こうなるとね、大学が黙っていられなくなったとみえて、宮城教育大では講義までさせられるし、岩手医大でも来いという。東北大の生理学の後輩たちの中でも関心をもつものが出てきたんです。

東北大の中での脳神経疾患研究所の佐藤元先生や伊藤久雄先生、宮城教育大では川上吉昭先生の研究室は熱心ですね。
脳研には、私の所の若い者が二人、週に数回出かけているが、そこの患者さんというのは、大学病院や大学院が手に負えなくなって回して寄越す人たちです。

そういう人たちを私の所の者にやらせてみると、それまで10年も20年もいろいろな医者が診てダメだったのが、みるみるうちに変わってくるものだから、そこの先生方が、こりゃ大変だということで、今、研究にかかっているんです。

宮城教育大の川上教室では、月に一回研究会を開いて、私のところで診ている筋ジストロフィーの患者や知恵おくれの子供たちのからだの変化の観察・治療の結果を検討しています。

今のところ非常によい結果が出ているのは事実だが、それがこの操体だけでそうなっているのかどうかを断定するだけの資料がまだないものだから、今は何とも言えません。
だけども、本当に熱心に検討会が行われていて、もうしばらく様子を見ていこうと思っているところです。

いずれにしても、最近になり専門家の注目をひき、これを研究しようという動きが大学の中で出てきたのは、50年余りの私の願いが微々たりといえども報いられて、その開発しだいでは世界の医学が変わるだろうと思えてならないんだ。

<宮城教育大の川上吉昭教授が中心となって、「操体法写真解説集」:柏樹社が1979年に出版されました。分厚い本で最初の20ページ程は、カラーで橋本先生がモデルさんに操法をしています。それ以降の200ページ程は、白衣姿の男性が同じモデルさんに操法をしています。
この写真集は、英語版になり海外(私の知っている限りではドイツ)の専門学校のテキストになっています。
ただ、その後、大学で操体が研究されているのか、私にはよく分かりません。

また、この「操体法写真解説集」は大変素晴らしい研究書ではありますが、症状疾患別に操法を紹介しています。
実をいうと、これは操体の見方ではありません。
我が師・三浦寛先生が、疾患別治療大百科ーアレルギー性疾患:医道の日本社のなかで、次のように書いておられます。

「私自身は3度目の執筆だが、今回はちょっと本音を言わせてもらいたい。というのは、「疾患別治療」というテーマに対して100%納得して執筆しているのではないということである。
筆者も臨床家の1人として、35年間、臨床に携わってきた、その上で、白日の下にすべてをありのままに本音で読者にさらけ出し、問いかけてみたいのである。

一般的には、臨床家の多くが、病名、疾患別治療という捉え方で実際の臨床に望んでいるのであろう、しかし、疾患別に治療するという臨床家の姿勢が、果たして本然(理)にかなう臨床なのか、別な表現を借りれば、疾患そのものの現象をいきなり捉えて治す、という試みが、果たして理にかなった方法なのか、その疑問を改めて考え直す必要がある、と筆者は読者に問いかけているのだ。

心ある臨床家の多くは、「疾患別に診る」というこだわりをもって臨床には望んでいないのである。
健康傾向の歪体化というプロセスが理解されていれば、疾患そのものは結果的な現象なのであって、その現象を結果的に引き起こしている原因が存在していることに、気づきをもって、把握しているのである。

疾患そのものも、必ず火元(原因)があって成り立つ現象(変化)である。「喘息」という疾患そのものも、因果があって生み出されたキャリアである。
臨床に臨むに当たって、喘息そのものを鬼の首を捕らえていきなり治療の表に引きずり出すような臨床行為は、火元に放水して消化しているのではなく、サイレンに放水し消しにかかるようなものなのである。」

このように、操体では、症状疾患別にからだを診ません。疾患の原因であるからだの歪みを診るのです。
逆にいうと、あらゆる疾患を診ることが出来ます。なぜなら、疾患を持ったからだは歪体化しているからです。

今日は、橋本先生のお話から少しずれましたが、操体を知る上で非常に大切なことなので述べてみました。>

今日は、ここまで、明日は出張のため、お休みです。では ごきげんよう!

2010/08/05

からだの設計にミスはない 写本(p22〜23)

操体法のひろがり

私は戦後ソ連に抑留され、昭和23年に帰還した。
帰還後の3年間、私はじっと現代医学界の情勢をみていました。当時、サルファ剤やペニシリンなどをのりこえて抗生物質が外敵に対する威力を発揮していて注目の的であったが、疾病現象そのものについての研究は誰も目新しい発表をしていないようなので、昭和26年あたりから「日本医事新報」その他の雑誌に書き始めたんです。

そして、その後の20何年間、私はからだの基礎構造生理と医療との関連について、各誌に書きまくったが、肝心の現代医学界からの反応はほとんどなかった。
ほとほといや気がさしてきて、昭和49年頃には、もう書くのはやめようと思いました。

これがいよいよ最後だと思って、もうこれで筆を断つことを決心して、その年の暮れに「山寺の晩鐘」という一文を書いた。
この鐘でおしまいだ、という意味の外に、“おててつないで皆帰ろ”の文句を「うちに帰ればいいんだ、元に戻ればいいんだ」という意味を含ませたつもりだったのです。

ところがね、いざ書くことをやめてしまった途端に、「現代農業」誌が連載を頼みに来るし、地方のテレビ局は騒ぎだすしで、とうとうNHKまでやって来た。

おかしいもんだなあ、「山寺の晩鐘」のつもりが、あっという間に「夜明けの鐘」みたいになってしまって、たちまち私は有名人というわけです。
特に筋ジストロフィーの少年が、操体によってめざましく好転していく過程をNHKで放映してからというものは、全国各地から、遠くは沖縄、北海道からも患者が押しかけてくるようになりました。

<この文章を読み直し、橋本先生の凄さを改めて認識致した次第です。
20数年間、全く反応のない現代医学界に対し、警鐘を鳴らす投稿を続ける信念。
コツコツと“静かな汗”をかいておられるその姿に感動を覚えます。
この橋本先生が伝えようとされている、“生命体の真理”を
橋本先生の愛弟子・三浦寛先生が継承され、我々弟子達が学んでいるのです。

私が、写本をするようになったのは、三浦寛先生の薦めがあったのと、操体を学びはじめ、10年目になった現在、今一度原点に戻り、改めて操体生活を始めたいと思ったからです。
この写本を始めて、橋本先生の息づかいを感じることができるようになりました。

私のような、わがままな人間は、写本をする事で謙虚さを学ぶことが出来るように思います。
写本を薦めてくださった三浦寛先生に改めてお礼を申し上げます。

PS:今日8月5日は、私の長男の誕生日。記録的な暑さのなか、京都・綾部市の大本教本山横の
病院で生まれました。
あれから、16年経ち、子供達3人はスクスク育っているはずです。

必ずや再会し、私の生き様をみてもらいたいと思います。>


今日はここまで、では ごきげんよう!

2010/08/04

からだの設計にミスはない 写本(p21〜22)

元に戻せばよくなるのだ

<昨日からの続きです>
でもね、皆さんがこの療法を理解してくれて、家庭の中で活かしてくれたら、お医者さんなんかいらなくなってしまうからー。奥さんとダンナさんがお互いにね、

「あんた、どっちが気持ちいいの、私が痛いところを押さえといてあげるから、気持ちのいい方へ動いてごらんなさい」
「どうも俺、背中のこの辺が調子が悪い。こっちへ動かすと痛いから、その時はその反対へ動かせばいいんだな」
「私、手伝ってあげるから、うつ伏せになってごらんなさいよ」
「じゃ、お願いするかな」
「どの辺が痛いのよ、この辺?」
「ああ、そこだそこだ」
「それじゃ、私がここに手をあててるから、あなた、息を吐きながら、痛いのが痛くなくなるようにからだを動かして逃げてみてよ」
「こうやってかな、三十六計逃げるに如かず、とはこのことか」
「どう、とにかく気持ちいい方に逃げればいいのよ、そうそう」
「ああ、痛いのがとれてきた、とれてきた」
というふうに、夫とか妻が、親と子が、彼と彼女が、友だち同士が、お互いに心を通わせて相睦み合ってやりあえば、世の中も平和になるんじゃないかなあ。

<私は四国の山奥で生まれ育ちました。四国はお灸が盛ん(多分、八十八箇所お遍路廻りのせいでしょう)で、じいさんや、ばあさんが近所の人を我が家に呼び、お互いにお灸をすえていたのを、覚えています。

また、私が小学生のころは、神経性胃炎に悩まされていたのですが、父親の指圧でいつも良くなっていました。
この体験が医療への道の礎になったようです。まあ〜随分と回り道になってしまいましたが・・・

父親が亡くなってから13年たちます。胆嚢を取り出すという簡単な手術のはずが・・・今でも、医療ミスだと思っています。
もう少し早く、この世界に入っておれば、父親に恩返しが出来たかもしれなかったのに、何か適切な助言を与えることが出来たのではないか・・・
と考えてしまいます。

とにかく、家庭内で健康管理をしていくのが基本です。
その真ん中に操体を置くことがベストだと思っています。
なぜなら、操体は自然法則の理を説き、しかも、100点満点でなくても充分。及第点を取っていれば、快適な人生を送ることができるのですから・・・>

今日はここまで、それでは ごきげんよう!

2010/08/03

からだの設計にミスはない 写本(p19〜21)

元に戻せばよくなるのだ

私は患者さんに対して「痛い運動は、それ以上やるなと前方に赤ランプが出ているということだから、バック運動しなさい。元に戻せばよくなるのだ」と説明しているが、これをもっと具体的にくだいて言うと、例えば、右の腕がどうも動かしづらい、とします。
無理して動かすと痛い。

なぜ痛いのかというと、そういうふうに動いてもらうとだんだん壊れるから、動けないようにからだの方が防衛しているわけです。
それをね、無理やり引っぱったり捻ったりするから、ますます悪くなるんですよ。
そういう時は決して無理をしてはいけない。痛いとか、動かないということがわかったら、そこに歪みがあるということだから、動かせるギリギリのところから、痛くないラクな方向へうごかせばいい。
元へ戻す運動のコースを整復コースとすれば、このコースへのせればいいんだ。

他人にやってもらっても、自分でやってもいい、とにかく動きの分析を行い、コースを確認して、それにのせることです。
元に戻して、ちゃんと元の所へもってくれば、すぐに元のように動くようになる。ただそれだけのことです。

それだけのことを、私がここでパッパッとやると、今まで口もきけないほど苦しかった痛みが、いっぺんでとれる。
動けなかったものが、すぐその場で動けるようになるのだから、患者の方はもうびっくりして、キョトンとしている。

まるで奇跡のように思えるかもしらんが。わけさえしれば、何もこれはたいしたことじゃない。こんなことはたいしたことじゃない。
何も大発見というほどのことじゃない。こんなことは学問にもならないんです。
だけどもやっぱりこれはお医者さんたちが是が非でも知ってもらわなくっちゃならない。それにはね、皆さん方が十分にこれを理解してくれて、医者を突き上げてもらわないとダメなんですね。

「あんた、これなおせるか、治してみろ。治せないなら俺がなおしてみせる」
「この病気はこうやって治るんだけれども、これはどういうわけで治るんだかわかるか」
なんて医者たちにいうようになれば、医者としてもウカウカしてはおれまいから、勉強せざるを得ないでしょ。


<おそらく、これほど簡単に真実を語っておられる人物は洋の東西を探してもいないと思います。西洋医学を勉強され、その限界を知り、医者の立場から、西洋医学を否定されています。

事実、器質の変化が臓器に現れるまで、病名がつけられず。病名をやっとつけた時点で、医者から何でこんなになるまで放置していたのですか?という矛盾した発言を聞くことがあります。
病名が分かった段階では、もう手遅れ!ということも多いのです。

その点、望診・問診・聞診・切診・舌診・腹診・脈診など様々な診断法がある東洋医学の方がはるかに優れていると思います。

操体では、東洋医学にもない動かして診断する動診があります。
しかし、この動診も進化して現在に至っております。
昨日にも言いましたが、橋本先生の生きておられた時代と現在とは環境・精神状態等の差違があり、それがからだに反映されています。そのため修復コースが必ずしも一定の動きではありません。
現在では、動診も動きよりも、患者さんによる感覚分析を動診としています。つまり、快なのか、不快なのか患者さんに動きながら感覚の聞きわけをしていただくことを動診。そして、快ならば、それを味わうこと、これを治療としています。>

きょうは、ここまで。では ごきげんよう!

2010/08/02

からだの設計にミスはない 写本(p18〜19)

元に戻せばよくなるのだ

何でも気持ちのよいことをするのがいい、と言ったが、からだを動かすのでも、気持ちのよい方へ動かせばそれでいいのです。
だけども、ただメチャクチャに動いたんでは、どっちが気持ちいいのやら、どっちが気持ちわるいのやら、それがよく分からない。
やはり動きというもの、人間はどういうふうに動くものかをまず考えなくてはならない。

動きというものは大きく分類して8つある。
前後屈伸、左右屈伸、左右の捻り、引っぱりと押っつけ、の8つです。(極限律—オクタント)。

まずその8つの動きを一つ一つ試してみること。そして、もっとも気分の悪い動きはこの8つの中のどれかがわかったら、その動きの反対が1番気持ちいいんです。
左の捻りに異常を感じたら、右に捻るのが1番気持ちがいい。そういうふうにからだができているのです。

<この指摘は、現在あまり行っていない操法・第1分析の理論に属すると思います。
例えば、仰臥位膝1/2屈曲位で、両膝を右に傾倒して、痛みを感じたので、反対の左に傾倒するという考え方。
もしくは、痛みを感じない場合、どちらの方が楽ですが?
という問いかけを行い、楽な方へ傾倒する二者択一の操法。
現在は、この第一分析をほとんど行いません。
しかし、残念ながらこの操法が世間一般では操体法として、知られています。
橋本先生のこの文章を読まれて、「あ〜あ〜そうなんだ、二者択一の操法という簡単な理論なんだ」と誤解される方が多いと思います。
事実、私もこの本を30年近く前に読んだときそう感じました。
こんな便利な理論があるなら直ぐにでも習得し、実践してみたい!と多くの方は思われると思います。

ところが、これには3つの落とし穴があると思います。

1:橋本先生があまりにも名人でありすぎたため、患者さんに触れた瞬間、患者さんが気持ちよさをもうすでに感じていたと思います。その状況下での操法と、素人が触れた時の操法では、歴然とした違いがあるはずです。

2:当時(高度成長期を向かえる以前)は農業や水産業のような第一次産業に従事する人々が80%近くいました。そのような人々のからだの歪みと高度成長期後の人々の歪みは必然的に違いがあります。
特に、最近の都市に生活する若者は、ストレスを抱え込み、そのストレスがからだの歪みを作っています。
つまり、単純に色分けできるからだではなくなっています。

3:1と2との結果、当時、橋本先生の治療を受けた人々は、動きやすい=快、動きにくい=不快という理論が成立していたのですが、動きやすい=快という理論が現在では成り立たなくなっています。

つまり、動きやすい=楽は成り立ちますが、楽=快は成り立たないのです。

このことは、橋本先生の愛弟子であり、私の師匠である三浦寛先生が、「快からのメッセージ:たにぐち書店」p113で詳しく書かれてあります。

現役を退かれた橋本先生が、「気もちのよさをききわければいいんだよ。気もちのよさで治るんだからな」
と三浦先生に語りかけられ、従来の楽な方向への動診と操法を見直すきっかけとなったのです。>


今日はここまで、では、ごきげんよう!

2010/08/01

からだの設計にミスはない 写本(p15〜18)

からだの設計にミスはない

当時は函館にいたもので、患者には漁夫が多かった。
ある日、マストから落ちてケガをしたのがやってきた。
額に何かをぶっつけたらしく、ペコッと丸くへっこんでいる。
陥没骨折というやつです。

これは、ちょっと手術以外にどうしようもないな、と思ったが、フトこっちからへっこんだんだから、反対のどこかに何か変化があるのではと思い直して、頭のあっちこっちを触ってみたのです。
するとちょうど後頭部の対称点にひどい圧痛があるという。

そして、そこの所を触ると、うんと気持ちがいいと言うんですね。気持ちがいいんだったら気持ちがよくしてやれ、とばかりにそこを毎日押してみた。
するとね、骨がだんだん出てきてんだ。初めはこんなことってあるのかな、と思っていたが、確かに出てきている。
それからはもう一生懸命、とにかく押してやれと思って、それを2〜3ヶ月続けてみたら、ほとんど凹みが目だ立たない程度にでてきたんですよ。
こっちはもうびっくりしてしまった。こんなことは現代医学で教えてくれないものね。

<先日、ある患者さんとこのような会話をしました。
「東洋医学では、肺と大腸は陰と陽の関係があるんですよ。」
「あれ!じゃあ私が結核になったとき、急に便が細くなったのは、関係があるのかしら?」
「それは、あると思いますよ。
肺と大腸は位置的にもからだの対角。左の肺が右の上行結腸と関係があると思います。すべて、表裏一体ですから。」
このような会話をしました。
ぽろっと話したことから、思わぬ真実を知ることができました。>

私が、「とにかく気持ちのいいことをしろ、気持ちのいいことが1番だ」といつも言うのはこんな経験があるからなんですが、まあ、そういった療法をする人が、民間には昔からいたんです。
私はその後ずっと、あらゆる機会をとらえてはいろいろ試みてみましたが、まさにその通り、という確信をますます強くしたものでした。

気持ちのいいことは何をしてもいい。苦しい方、痛い方に動くのでなく、ラクな方、気持ちのいい方へ動けばいい。

だけどもね、その時にはうんと気持ちよくっても、後になって気持ちが悪くなる、つまり、後味が悪いっていうのがあるが、それは本当の気持ち良さとは違う。

例えば、食い過ぎ、二日酔い、あれは後味悪いよね。
セックスにしても、相手とおしゃべりしたり、手を触ったりキスしたりするぐらいで楽しむなら、まあそんなに後味が悪いなんてこともないだろうが、ある特定のところで、がんばってはしゃぎすぎるとダウンして、翌日はからだがシャンとしなくなる。

結局ね、撫でても、さすっても、たたいても、火を押しつけても、針をさしても、たとえ焼火ばしを押しつけても、それが気持ちよければ何をしてもかまわないんだ。
後味が悪くなければかまわないんですよ。

よく患者さんは「これは冷やした方がいいですか、温めたほうがいいですか」と聞きますが、私はいつもこう答えることにしています。
「冷蔵庫も入ったていいですよ、それが気持ちいいならね」と。

<橋本先生が、快適感覚に立脚した操体の体系作りに、大きな影響を与えたのが、この「マストからの転落・陥没骨折事故の治療」。
己が存在する以前からある生命体に感謝し、その生命体は常に快適感覚に従うという理を理解して治療に専念すべきだと、あらためて思います。>
今日は、ここまで。では、ごきげんよう!