早速、写本に入りましょう。
書道のことが書いてあった。子供の頃、字を書く時は、肘を張って、腕に力を入れて書くのだと教えられたこともあったが、どうも腑に落ちないでいた。
ある時、当時の満州国皇帝が字を書いている写真を見たことがある。そして私は唸った。椅子に端座して、筆と示指を正中線に立てて、小指と示指の尖端を、筆管を底辺とする三角形の両辺の如く伸ばして、拇指と他の指はその中間を支えている姿であった。そして、その書は、私には頗る美事に観ぜられたのである。
上肢はかくの如く、小指に重点を指向すれば、上肢全体は、からだの正中に近く集約される。手先も全体に統一せられて、その動作は全身一致の妙を発揮する。
しかし、下肢に於いてはその反対である。
足裏にかかる全身の重力は、平均であるが、動作時の重点は外側にあってはいけない。足の外側に重心が偏れば膝が開いて倒れやすくなる。足幅よりも膝幅を開いた相撲の仕切りなどおかしい。そのためには拇趾に力が入る必要がある。動作の秘訣は、手は小指に、足は拇趾に力が入る必要がある。動作の秘訣は、手は小指に、足では拇趾に力を入れるようにすることである。
<前々回の東京操体フォーラムで、南画の大家・田中稲翠先生が、講演をされました。その時、書を書いていてくださいました。その筆の持ち方が、満州国皇帝のものと同じです。
やはり、あの持ち方からからだ全体が流れるような動きになっていました。美事な動きでした。
また、仕切りに関してですが、あれは、腰を落とし、相手の圧力を受け取る為の所作でもあると思います。ですから、私はあの仕切りは正しいと思います。>
きょうは、ここまで、では ごきげんよう!
2010/12/10
2010/12/09
からだの設計にミスはない 写本(p116〜117)
それでは早速、写本に入ります。
小指
武道、諸芸、スポーツ、皆小指の効用を再確認されているのが愉快である。馬術でも手綱の捌きは、小指に重点がおかれねばならぬし、剣道でも束の握りは支点が小指にあり、雑巾を絞るようにという。肘を外方に張ってはいけない。走っている車や馬から落ちた場合、怪我せぬ秘訣は、小指にギュッと力を入れて、身を丸くするにあるという。
何故、小指に力を集約することが必要なのか?
小指に力点をおけば、肘がからだの正中に近づくからである。体の崩れとは、重心が中心から、限度を超えて末梢に偏ることである。あらゆる動作は、この中心に近く支点即重心を安定してなされたものが、高能率で疲れが少ない。疲れは、偏在した重力が復元し難くなっている時と所に起こるのである。
崩れぬ体中心に統一されたからだは美しい。又その動作も優美である。フォームの美しさと能率とは一致する。能率の伴わぬ形の美は偽の美である。華道の達人を剣道の達人が斬れないという話をきいたことがあるが、達人ともなれば、からだが安定して、静のうちに動のポテンシャルエナジーが充満しているから、一方の達人からは隙が発見出来なかったのであろう。
<私の師匠・三浦寛先生が、ふらりと街を歩いていると、「何の師範をされておられますか?」と聞かれることがあります。
達人からみれば、我が師匠が達人であることが、直ぐにわかるようです。その点、わたしなんぞ・・話にもなりません。
ただ、脱力し、余分な力を入れず、回りの気配を感じながら歩くことは心がけています。>
今日は、ここまで、では どきげんよう!
小指
武道、諸芸、スポーツ、皆小指の効用を再確認されているのが愉快である。馬術でも手綱の捌きは、小指に重点がおかれねばならぬし、剣道でも束の握りは支点が小指にあり、雑巾を絞るようにという。肘を外方に張ってはいけない。走っている車や馬から落ちた場合、怪我せぬ秘訣は、小指にギュッと力を入れて、身を丸くするにあるという。
何故、小指に力を集約することが必要なのか?
小指に力点をおけば、肘がからだの正中に近づくからである。体の崩れとは、重心が中心から、限度を超えて末梢に偏ることである。あらゆる動作は、この中心に近く支点即重心を安定してなされたものが、高能率で疲れが少ない。疲れは、偏在した重力が復元し難くなっている時と所に起こるのである。
崩れぬ体中心に統一されたからだは美しい。又その動作も優美である。フォームの美しさと能率とは一致する。能率の伴わぬ形の美は偽の美である。華道の達人を剣道の達人が斬れないという話をきいたことがあるが、達人ともなれば、からだが安定して、静のうちに動のポテンシャルエナジーが充満しているから、一方の達人からは隙が発見出来なかったのであろう。
<私の師匠・三浦寛先生が、ふらりと街を歩いていると、「何の師範をされておられますか?」と聞かれることがあります。
達人からみれば、我が師匠が達人であることが、直ぐにわかるようです。その点、わたしなんぞ・・話にもなりません。
ただ、脱力し、余分な力を入れず、回りの気配を感じながら歩くことは心がけています。>
今日は、ここまで、では どきげんよう!
2010/12/08
からだの設計にミスはない 写本(p114〜116)
おはようございます、この写本やっと半分終わった程度です。なんとか、春までには終わらせたいものです。
さてそれでは、早速始めます。
垂直に体位を変換させても、針は又振れますが、重力が骨盤に安定している度合によって、人の能力は、肉体的にも、精神的にも違います。ゴニオメーターで起立安定度を各方向から測ると、個人的には、ある一定方向に、弱点が現れ、集団的には、頻度の大小によって、身心の能率比が現れます。
左右重心の偏りは、計器を用いずとも、正面に起立して、閉目させ、二三十回、足踏みをさせれば、重心の傾く方向に回旋してきます。吹雪の廣野に軍隊が円を書いて行進する話など聞きますが、さもあるべきことと思うのです。健康法として、この重心の安定を保つよう、全身を平均統一的に運動する方法も考えられています。末梢の運動も、必ず、中心に集約されるようにやらぬと、疲れが早く、ひどければからだをこわします。からだをこわすということは、病気をおこすということで、私は病気の原因の一つは、骨格の平衡を失った変位から来るものと思っています。
東洋の医療は、体表に現れた諸変化から、刺激点を決定して、実は骨格の変位を整復することによって、内臓の病気をも
治しているように見えるのです。三十年近く、私はこの考えで、患者に接すれば、まず骨格を観察して、それを平衡状態に整復するようつとめています。それによって即座に、気分(即ち主訴)のよくなる例は、たくさんあります。気分も骨格も変位から来るものなのでしょうか。現代医学は精緻をきわめておりますが、大まかなこと、全体的に一つとしてみることを、もう一度みなおしてみる必要もあると思うのです。
体重心の安定と、骨格の変位、骨格の力学的関連性など、その一つだと思います。如何なものでしょう。
<この章は、操体法の本質を述べておられます。未だにこの歪みを現代医学は問題にしていません。森に入り、木や蛇ばっかりみています。森を全然見ていない。
これでは、迷子になってしまいます。結果、多くの病気は原因不明!!
当たり前です、病気になってしまってからでないと、治療が出来ないのですから。
治療といっても、切ったり貼ったり。後は、クスリで鎮圧。
これは、東洋医学でいうところの、下工のする術。上工は病気になる前、つまり未病を診なければなりません。
その指針が、からだの歪みなのです。ところが、東洋医学でも、からだの歪みを病因の一つだといっていません(私の知るかぎりでは)。
今一度、この歪み・・・からだ以外も、心、生活、動き全て含みます・・・を考えなおす必要があります。>
では また 明日、ごきげんよう!
さてそれでは、早速始めます。
垂直に体位を変換させても、針は又振れますが、重力が骨盤に安定している度合によって、人の能力は、肉体的にも、精神的にも違います。ゴニオメーターで起立安定度を各方向から測ると、個人的には、ある一定方向に、弱点が現れ、集団的には、頻度の大小によって、身心の能率比が現れます。
左右重心の偏りは、計器を用いずとも、正面に起立して、閉目させ、二三十回、足踏みをさせれば、重心の傾く方向に回旋してきます。吹雪の廣野に軍隊が円を書いて行進する話など聞きますが、さもあるべきことと思うのです。健康法として、この重心の安定を保つよう、全身を平均統一的に運動する方法も考えられています。末梢の運動も、必ず、中心に集約されるようにやらぬと、疲れが早く、ひどければからだをこわします。からだをこわすということは、病気をおこすということで、私は病気の原因の一つは、骨格の平衡を失った変位から来るものと思っています。
東洋の医療は、体表に現れた諸変化から、刺激点を決定して、実は骨格の変位を整復することによって、内臓の病気をも
治しているように見えるのです。三十年近く、私はこの考えで、患者に接すれば、まず骨格を観察して、それを平衡状態に整復するようつとめています。それによって即座に、気分(即ち主訴)のよくなる例は、たくさんあります。気分も骨格も変位から来るものなのでしょうか。現代医学は精緻をきわめておりますが、大まかなこと、全体的に一つとしてみることを、もう一度みなおしてみる必要もあると思うのです。
体重心の安定と、骨格の変位、骨格の力学的関連性など、その一つだと思います。如何なものでしょう。
<この章は、操体法の本質を述べておられます。未だにこの歪みを現代医学は問題にしていません。森に入り、木や蛇ばっかりみています。森を全然見ていない。
これでは、迷子になってしまいます。結果、多くの病気は原因不明!!
当たり前です、病気になってしまってからでないと、治療が出来ないのですから。
治療といっても、切ったり貼ったり。後は、クスリで鎮圧。
これは、東洋医学でいうところの、下工のする術。上工は病気になる前、つまり未病を診なければなりません。
その指針が、からだの歪みなのです。ところが、東洋医学でも、からだの歪みを病因の一つだといっていません(私の知るかぎりでは)。
今一度、この歪み・・・からだ以外も、心、生活、動き全て含みます・・・を考えなおす必要があります。>
では また 明日、ごきげんよう!
2010/12/07
からだの設計にミスはない 写本(p114)
それでは、早速写本にうつります。
右手が動くようになる動機に、右利き眼が一つのファクターになるのではないかと思っています。右眼が利く時、顔の
向きが変わってきます(多人数の写真を出して観察してごらんなさい。面白いことが発見出来ます)。さて、物に対して、行動を起こす時の体の向きは、利き眼に左右され、体重心を決定的にし、そのため利き手を生じるのではないでしょうか。
体の重心が中心に近く、平衡状態に安定している時は、動作は一番能率的なのですが、重心が中心からずれるほど、能率は減り、体は崩れます。
武道、スポーツをやった人なら、合点がいきましょう。利き足の左右がありますが、足裏に左右同じように、重心のかかっている人は稀です。体重計を二つ並べて、その中央に片足ずつのせて、立たせて針をごらんになれば、一目瞭然です。六十キロの人が左右三十キロずつかかっている人は少ない。右重心が断然おおいはずです。
<実は、右利きの人は、左重心なのです。橋本先生は、この当時、まだ試行錯誤されておられた時期だと思います。
そのため、仮説として、右利きは右重心だとされたのだと思います。
ところが、右利きの人は、左重心で軸がやや左にずれています。
また、個人的には、私は、右利きにもかかわらず、左眼利きです。そのため、左に重心が移ると非常に安定します。
卑近な例ですと、四股を踏む場合、左足底に重心を移し、右足を上げるのと、その逆とでは、安定感が全然ちがいます。
横綱の土俵入りでも、まずは、左足底に重心を移し、右足を上げ、続いて右足底に重心を移し、左足を上げ、再び左足底に重心を移し、右足を上げ、合計3回の四股を踏みます。
これは、右利きを前提として恒例化したのでしょう。
ですから、左利きの朝青龍は最初はやりづらかったことでしょう。>
今日は、ここまで、ではごきげんよう!
右手が動くようになる動機に、右利き眼が一つのファクターになるのではないかと思っています。右眼が利く時、顔の
向きが変わってきます(多人数の写真を出して観察してごらんなさい。面白いことが発見出来ます)。さて、物に対して、行動を起こす時の体の向きは、利き眼に左右され、体重心を決定的にし、そのため利き手を生じるのではないでしょうか。
体の重心が中心に近く、平衡状態に安定している時は、動作は一番能率的なのですが、重心が中心からずれるほど、能率は減り、体は崩れます。
武道、スポーツをやった人なら、合点がいきましょう。利き足の左右がありますが、足裏に左右同じように、重心のかかっている人は稀です。体重計を二つ並べて、その中央に片足ずつのせて、立たせて針をごらんになれば、一目瞭然です。六十キロの人が左右三十キロずつかかっている人は少ない。右重心が断然おおいはずです。
<実は、右利きの人は、左重心なのです。橋本先生は、この当時、まだ試行錯誤されておられた時期だと思います。
そのため、仮説として、右利きは右重心だとされたのだと思います。
ところが、右利きの人は、左重心で軸がやや左にずれています。
また、個人的には、私は、右利きにもかかわらず、左眼利きです。そのため、左に重心が移ると非常に安定します。
卑近な例ですと、四股を踏む場合、左足底に重心を移し、右足を上げるのと、その逆とでは、安定感が全然ちがいます。
横綱の土俵入りでも、まずは、左足底に重心を移し、右足を上げ、続いて右足底に重心を移し、左足を上げ、再び左足底に重心を移し、右足を上げ、合計3回の四股を踏みます。
これは、右利きを前提として恒例化したのでしょう。
ですから、左利きの朝青龍は最初はやりづらかったことでしょう。>
今日は、ここまで、ではごきげんよう!
2010/12/06
からだの設計にミスはない 写本(p112〜113)
いやはや、もうすっかり日記を書くことを、怠ってしまいました。
昨日、日記が進んでいないことを、ある方に指摘され、再び奮起した次第です。
テストと東京操体フォーラムのブログ担当が、重なりこの日記に集中できませんでした。今後そのような場合、必ず何か理由を添えるようにいたします。
それでは、写本。
左利き
左利きの人は手ばかりでなく、眼もまた、左利きに出来ている、といわれますが、そういう傾向は多分にあるようです。私が昔(昭和の初め)函館市の中島小学校で、三、四百人の生徒について、いろいろ調査した記憶によると、左眼利きは約二割ぐらいで、右利きが大部分で八割ぐらい、両目利きは百あるいは二百人中一、二人というところでした。そして左眼利きは左手利きのものに多かったように記憶しています。
利き眼の試験法はハガキ大のカード中央に縦一センチ横二センチの穴をあけ、両手を水平に伸ばして、カードをもち、被験者の両目で穴から、二メートルくらい離れた検者の両眼が見えるようにさせるのです。すると本人は、両眼で見ているつもりでも、実は一眼でしかみていないことが、検者からはっきりわかります。利き眼の文献は、たしか千葉医大の古い報告書(明治年間?)があり、著者のお名前は、忘れましたが、非常に面白い記録があったようです。左右の利きは、実に眼や手ばかりでなく、耳も鼻も足にも、皆あるのです。それが、どうして起きてくるかということは、いろいろ言われていますが、確定的のものはないのでしょうか。私は、骨格と体重心の関係が、何かあるのではないか、と前から密かに考えていました。
今日は、このくらいにして、明日から少しずつ走り始めます。
それでは、ごきげんよう!
昨日、日記が進んでいないことを、ある方に指摘され、再び奮起した次第です。
テストと東京操体フォーラムのブログ担当が、重なりこの日記に集中できませんでした。今後そのような場合、必ず何か理由を添えるようにいたします。
それでは、写本。
左利き
左利きの人は手ばかりでなく、眼もまた、左利きに出来ている、といわれますが、そういう傾向は多分にあるようです。私が昔(昭和の初め)函館市の中島小学校で、三、四百人の生徒について、いろいろ調査した記憶によると、左眼利きは約二割ぐらいで、右利きが大部分で八割ぐらい、両目利きは百あるいは二百人中一、二人というところでした。そして左眼利きは左手利きのものに多かったように記憶しています。
利き眼の試験法はハガキ大のカード中央に縦一センチ横二センチの穴をあけ、両手を水平に伸ばして、カードをもち、被験者の両目で穴から、二メートルくらい離れた検者の両眼が見えるようにさせるのです。すると本人は、両眼で見ているつもりでも、実は一眼でしかみていないことが、検者からはっきりわかります。利き眼の文献は、たしか千葉医大の古い報告書(明治年間?)があり、著者のお名前は、忘れましたが、非常に面白い記録があったようです。左右の利きは、実に眼や手ばかりでなく、耳も鼻も足にも、皆あるのです。それが、どうして起きてくるかということは、いろいろ言われていますが、確定的のものはないのでしょうか。私は、骨格と体重心の関係が、何かあるのではないか、と前から密かに考えていました。
今日は、このくらいにして、明日から少しずつ走り始めます。
それでは、ごきげんよう!
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