2010/07/30
からだの設計にミスはない 写本(p13〜15)
大正10年(1921)に私は医師となり、直ちに基礎医学の生理学教室に入ったのだが、その5年後には、臨床それも全科開業病院へ飛び出した。
その年から、自分はアカデミーとは別な道を歩いたことになる。
なぜならば、私は正規な現代臨床学の厳格なしつけを、身につけ得ないでしまったからだ。単に学生時代に学んだ一般医学常識と、これを手引として医学雑誌を読むことだけで、臨床の師の指導というものを受けたことがなかった。
基礎医学もほんの初歩からいきなり民間臨床に飛び込んだのだから、ほんとに無茶な話です。
そんなわけだから、患者のいろいろな愁訴に正直なところ全くお手上げだった。医学書片手に奮闘したが、わけのわからないことばかりで手のつけようがない。いかにして患者の苦痛を除去してやるべきか、と私はあせざるを得なかった。
今にしてみれば、老大家といえども医師としてのこの苦悩は常にもっているのであるが、若僧の私はあせりにあせったのだ。
そして、私のような医者に見切りをつけた患者たちの動きを眺めていると、相当に非医者たる民間治療師や漢方医に流れていることがわかって、私は自分の貧弱な現代医療に何かプラスするものがあるかもしれないと触手を伸ばしてみはじめたんです。
特に私は整形外科の患者が苦手で往生していたので、接骨師を引っ張ってきてやらせてみたり、按摩、鍼、整体などの町の治療師たちに頭を下げて来てもらって、そのテクニックを教えてもらった。
彼らとて医者が頭を下げて教えを乞うのに不愉快なはずはなく、みんな得意になって親切に教えてくれた。
そんな模索を10年も続けただろうか。私には民間療法に一貫しているもの、彼らの企画しているもの(自らはそれを意識していないようにみえる)が、おぼろげながらつかみ得たと思った。それは、運動系の歪みの是正にある、ということに間違いないように思えてきたんです。
そして、更にいろいろとあさっているうちに、その歪みを治すのに、痛いことをしないで、痛くない方向に動かして治す方法があったというわけです(正体術・高橋迪雄氏)。
ハハア、なるほど、骨を動かすのか。骨格と病気とは関係があるな。私はその時、腹の底から得心がいったようなきがしました。
<橋本先生と民間療法との運命的な出会い・・・そして、操体法の兄貴分に当たる正体術との出会いにより、橋本先生が生涯をかけ、体系付けていかれた自然法則の理としての操体へと展開していったのです。この体系化された操体を三浦寛先生が確立されつつあり、我々弟子達が継承しているのです。
それにしても、橋本先生の謙虚さには、本当に頭が下がります。
ついつい不遜になる私は、常に常に、橋本先生の心をお手本にしなければなりません>
今日は、ここまで!
明日は、出張のためお休みです。
2010/07/29
「からだの設計にミスはない」写本(p11〜13)
所々、私の感想を入れていきたいと思います。
この本のお陰で、今の私があります。
丁度、滋賀県にある精神科の病院で働いているとき、この本と出会い、独学で身体運動の法則を学び(今考えると、ゾーとします!)患者さんに教えたところ、評判がよかったのです!
それでは始めましょう!<>内は、佐伯の感想文
有難き生をうけ、生かされてはいるが、どうもうまく生きかねているのが一般だ。何か間違っている。間違ってはならぬ、大自然の理法がある。その理法はむつかしいものではない。楽しい快適な、簡単なものだ。
その波動に共鳴共振すると天国が開ける。天成りの道を知ろう。
<何かに行き詰まったら、この原点に帰ってみると良い!>
第1章 人間の設計にミスはない
日本は宝島
私の治療法をね、橋本式だとか、私が開発したものだとか皆さんがよくおっしゃいますが、これね、私が自分で発明したことなんか、何んにもありゃしない。全部、民間から頂戴したものです。
私は50年も医者っていう名前で生きてきたけれども、その間にね、私は現代医学のアカデミー、いわゆる西洋流の医学からは何にも得た物がなかった。
<ここまで言い切れる橋本先生の凄さが、最近やっと分かってきました>
私に知恵を授けてくれたのは、みんな町の民間の治療師や漢方医たちだったんです。
日本は宝島でね、宝がいっぱいあるんですよ。地理の上からみても、日本は大陸のふきだまりで、いろいろなものが大陸から吹き寄せられてくる。
この先はもう海に落っこちるだけとなれば、いいもの悪いものがどんどんとたまってくる。
古来からずいぶんと積もり積もってきたんだろうが、悲しいかな、どれが宝で何がガラクタかとんと区別がつかない。
なかには21世紀の全人類に福音となるような宝だって埋まっているだろうが、西洋から来たものだけが宝に見えて、古来から東洋に伝わり民間に残されているものはガラクタに見えてしまうんだな。
私はこのガラクタのように思われているものの中から、21世紀の人類へ遺す宝ものを頂戴いたというわけです。
<事実、橋本先生は古代文字、ホツマ伝え・カタカムナ文字の研究者です>
こんなふうに言うと、いささか誇大妄想のように思われるかもしれませんが、それは私が誇大妄想ということでなくて、事実、日本の中にそういう宝があったということなんですね。
それを私がちゃっかり頂戴して理解させてもらった、それだけのことなんです。
<東京操体フォーラムでは、古武術の大家・島津健治先生のご指導を受け、古来の医道を体験しています>
ですから、さきほどもいいましたように、橋本式治療法なんて特別なことのように言われると、何だかお尻がむずがゆつなって、どうも調子悪いんだ。
いろいろな人が私の所におしかけて来て勉強していきますが、その人たちにいつも私言うんです、あんまり橋本式って言うなってー。
それよりか日本が宝の国だってことを自覚しなよってー。
日本にはまだいくらでも宝があるんだけれども、みんなそれを拾って磨かないから、まるで宝の持ちぐされだよって。
私も始めはやっぱり西洋医学をやったし、気をいれてやった時期もあったけれども、そこで習ったものなんかは、あんまりありがたくないもんばかりだったね。
もっとも私が民間の方に目を向けたっていうのも、決して私が偉かったからとか、宝を見る目が初めからあったなんていうことじゃない。
私は若い頃、大学の研究室で神経生理をやっていたが、とうとう食いつめて民間の病院に飛び込んだ。
ところが、大学では研究ばかりで臨床をまるっきり経験していなかったために、すっかり現代医療に自信を失い、民間治療に目を向けたってことだから、私もあんまり自慢するほどのこともないわけだよなあー。
<橋本先生の謙虚な姿勢に惹かれます。医療従事者としてのお手本だと思います>
2010/07/28
からだとの対話
おまけに、モスクワ周辺で発生した森林や泥炭の火災の影響で、スモッグが市内を覆う事態も発生。
窓やドアを通じてオフィスや住宅など室内にも流れ込み、モスクワ市民は酷暑と灰のにおいの二重苦に閉口。
とあります。ロシアの首都モスクワは北緯55度45分8秒、同じ緯度を東にのばし日本付近では、宗谷岬をはるかに超えてサハリンも越え、カムチャッカ半島中部あたりになります。
ということは、夏は白夜。
ドイツのハンブルグが北緯約53度。
このハンブルグで6〜7月を過ごしたことがありますが、夜の10時30分になって、やっと日が暮れ、朝は早くから日が昇り、完全な寝不足になった経験があります。
モスクワは、このハンブルグより北。
眠れない日々が続いているのでは・・と三重苦を想像してしまいます。
と心をモスクワに馳せながら・・・東京・世田谷の猛暑にCa,Mg,K入りのカラダ・バランス飲料を飲みながら耐えています。
愛媛の山奥に生まれ育った私は、暑さも寒さも苦手。
京都・美山町の茅葺き民家に20年住んでも寒さには対応出来ず、2月には鬱気味になっていました。
まあ〜それに比べれば、この暑さはまだマシ。
未だに,扇風機・エアコンをつけず頑張っています。
幸い家と家との隙間が風を運び、網戸越しに部屋を涼しくしてくれます。
日中は無風でも、夕方の5時くらいから風が入ってくれます。
この風があれば今年の猛暑は乗り越えられそう!
暑い昼間は、シーツを畳みの上に置き、ゆっくりと操体。
からだと対話しながら快適感覚をききわけています。
そして、快適感覚がききわけられたら、心からからだに感謝をします。
本当に心からの感謝をするのです。
この感謝の気持ちがもっとも大切。
最近、やっとそのことに気がつくようになりました。
その思いの深さにからだは反応するようです。
さあ、これからからだとの対話を始めます。
今日は、ここまで。ごきげんよう!
2010/07/27
矜持
今日から、少しずつブログを書いていきたいと思います。
先々週、東京操体フォーラムのブログに載せたものを、織り交ぜながら進めたいと思います。
それでは・・・・・
さて、いきなりではありますが、自分探しに当ててみたいと思うのです。
何を今更!
と思われるかも知れませんが、操体の世界に飛び込み10年目。そして、新たに医療専門学校に通い始め、2年目。
それ以前に、20年の芸術活動。
未だに独立出来ず、フラフラ。
一体何してんの・・・自分?
もう一度自分探しすることで、人生のグランドデザインを産み出すヒントが見つかるかも・・・
と、のっけからギアをトップにいれ突っ走ってみたくなったのです!
まずは、生い立ち以前に遡りましょう。
私が生まれたのは、1954年(昭和29年)。四国・愛媛の山奥にある神社の社務所。
まだまだ、戦後の香りが漂う、高度経済成長以前の胎動期。
その頃、もっとも恐怖を感じていたのが、祖父。
この祖父は、私の父・清明の父親。
私の父は、結婚し養子として、野口→佐伯へと姓を変えました。
ですから、普段はこわい祖父と出会うことはないのですが、正月などの祝い事では、どうしても会うことになるのです。
この祖父も神社の神主(川上神社)。
神社の境内ウラに古墳(7世紀中頃の終末期古墳)がありました。
古墳は、道後平野を見渡すことのできる場にあり、その地に、川上神社は、伊予を統括していた河野通久によって移されたと言われています。
応永四年(1396)のことです。
その後、河野氏の衰退は著しく、土佐の長宗我部氏の侵攻の前になすすべ もない状態で、永禄11年(1568年)ついに長宗我部氏に降伏。秀吉により河野氏の所領は没収され、河野通直は安芸国竹原に移り、河野氏は滅亡しました。
河野氏が滅亡後も松山藩主・松平氏の祈願所となり、地域の氏神として今日に至っております。
と書いて、初めて父方の家系を知ったのであります。
とにかく、日本史が大嫌いで常に赤点・・・少年のころは、最も知りたくない分野。
ひとたび知ると、とんでもない世界に入り込み,封じ込められそうな予感。
何となくパンドラの箱だったのです。
しかし、開けてしまいました!!!
さあ前に進みましょう、そこで、思い出してきました。
相変わらず、ノー天気でおバカさん高校生活をエンジョイしている私に、
「野口の家系はのう、代々松山藩主を教えよったんぞ!(ちいとわ、そのこと自覚せい=少し自覚しなさい)」かっこ内は行間。
と、見るに見かねて父親が一度だけ私に喋ったことがあります。しかし、それを言っちゃあ、おしまいです。
そして、それを書いちゃもっとおしまい。
まあ〜そういう訳で、おしまいになりました。
で、前に進めないのですが・・・
まあ〜とにかく・・・サイドブレーキかけながらでも、前に突っ走る!
父親の家系には、400年以上神社を守り続けているという矜持が存在していました。これは、一種独特のものです。
どうやら幼いなりに私はそれを感じ取っていたようです。
その矜持が漂う祖父に、幼い私はとても怖くて近づくことが出来なかったのです。
何しろ、白装束に白髪、胸元まで伸びる顎髭も真っ白。
そして、めがね越しの眼光の鋭さ。
私は、物陰にかくれて、祖父に会わないようにしていました。
あの時の感覚は今でも生々しく私のからだの中に染みこんでいます。
祖父は、愛媛新聞の編集長をしており、歯に衣着せぬ性格の持ち主。ある時、社内で起こった良からぬ事を摘発し紙面に記載。
もちろん首(くび)となり、その後は、地元に帰り郵便局長として仕事を全うしたそうです。
当時、このような魂をもった人々は数多くいたと思います。
思い返してみると・・・・・いました(すみません、身内です)。
末っ子である私の父親が最も尊敬し、怖がっていた長男の晃(あきら)叔父さん!
この叔父さんが祖父の血を一番濃く引き継いだ人物だと思います。
私の父親が一つ上の兄とけんかをし、父親が馬乗りになって、「ボカスカ、ボカスカ」。
もちろん、子供の頃です。
それを見ていた晃(あきら)叔父さんは、木刀で父親の頭を一撃。
父親は、あわれにも失神。
意識が戻ってきた父親と、兄を神棚の前に連れて行った晃(あきら)叔父さん。
「清明(私の父親)、すまん。」
と、正座したまま、短刀を抜き出して,自らの左前腕部を斬りつけたのです。
幸い、橈骨で短刀はとどまった為、動脈が切れるだけの重傷で済んだそうです。本人は本気で腕を切るつもりだったのだろうと思います。
そんな晃叔父さんは、戦争に行っても部下を守るため、平気で上司を殴りました。晃叔父さんのお通夜の時、その部下の方が、しみじみと涙ながらに話して下さいました。
叔父の数々の武勇伝は、私が幼い頃から聞かされており、私にとってヒーロー。
私は、とてもこのような事はできませんが、祖父や叔父と同じ血が流れていることの矜持。
これを忘れては、いけません。
戦後、アメリカン・ポチ化して気がついてみると、家はツーバイフォーのアメリカ式建築、キンコーズ、マクドナルドが、一等地を買収。
私の通う四ッ谷の一等地などは、アメリカの宗教団体に押さえられています。
子供の体型もアメリカン様肥満が目立ち始めています。
このままでは、1万5000年前から続く縄文文化を基礎とする日本文化がわずか半世紀で、アメリカンウィルスにやられてしまいます。
とは言え、私一人で何が出来る?
出来ることはあります!
日本思想の源流・相似象を研究された医師・橋本敬三先生が、体系化なさり、三浦寛先生が確立されておられる操体。
この至宝とも言える操体の継承であります。
矜持を持って、日本刀で腕を切る気概でやることであります。
ここまで書いて自分探しが出来ている自分に気がつきました!