2010/08/05

からだの設計にミスはない 写本(p22〜23)

操体法のひろがり

私は戦後ソ連に抑留され、昭和23年に帰還した。
帰還後の3年間、私はじっと現代医学界の情勢をみていました。当時、サルファ剤やペニシリンなどをのりこえて抗生物質が外敵に対する威力を発揮していて注目の的であったが、疾病現象そのものについての研究は誰も目新しい発表をしていないようなので、昭和26年あたりから「日本医事新報」その他の雑誌に書き始めたんです。

そして、その後の20何年間、私はからだの基礎構造生理と医療との関連について、各誌に書きまくったが、肝心の現代医学界からの反応はほとんどなかった。
ほとほといや気がさしてきて、昭和49年頃には、もう書くのはやめようと思いました。

これがいよいよ最後だと思って、もうこれで筆を断つことを決心して、その年の暮れに「山寺の晩鐘」という一文を書いた。
この鐘でおしまいだ、という意味の外に、“おててつないで皆帰ろ”の文句を「うちに帰ればいいんだ、元に戻ればいいんだ」という意味を含ませたつもりだったのです。

ところがね、いざ書くことをやめてしまった途端に、「現代農業」誌が連載を頼みに来るし、地方のテレビ局は騒ぎだすしで、とうとうNHKまでやって来た。

おかしいもんだなあ、「山寺の晩鐘」のつもりが、あっという間に「夜明けの鐘」みたいになってしまって、たちまち私は有名人というわけです。
特に筋ジストロフィーの少年が、操体によってめざましく好転していく過程をNHKで放映してからというものは、全国各地から、遠くは沖縄、北海道からも患者が押しかけてくるようになりました。

<この文章を読み直し、橋本先生の凄さを改めて認識致した次第です。
20数年間、全く反応のない現代医学界に対し、警鐘を鳴らす投稿を続ける信念。
コツコツと“静かな汗”をかいておられるその姿に感動を覚えます。
この橋本先生が伝えようとされている、“生命体の真理”を
橋本先生の愛弟子・三浦寛先生が継承され、我々弟子達が学んでいるのです。

私が、写本をするようになったのは、三浦寛先生の薦めがあったのと、操体を学びはじめ、10年目になった現在、今一度原点に戻り、改めて操体生活を始めたいと思ったからです。
この写本を始めて、橋本先生の息づかいを感じることができるようになりました。

私のような、わがままな人間は、写本をする事で謙虚さを学ぶことが出来るように思います。
写本を薦めてくださった三浦寛先生に改めてお礼を申し上げます。

PS:今日8月5日は、私の長男の誕生日。記録的な暑さのなか、京都・綾部市の大本教本山横の
病院で生まれました。
あれから、16年経ち、子供達3人はスクスク育っているはずです。

必ずや再会し、私の生き様をみてもらいたいと思います。>


今日はここまで、では ごきげんよう!

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