2010/08/17

からだの設計にミスはない 写本(p46〜48)

今日は、トイレ掃除が出来ました、ありがとうございます。

さて、昨日は“救い”についての写本でしたが、今日は“報い”についての写本になります。

“救い”と “報い”

自分のそうした思わくや行為は必ず報いられて、自分の上に遅かれ早かれ現れてくる。この地上に私たちが生きている限り、私たちは“報い”を避けることはできない。
この世は因果応報の世界なのだーと。

自分のやったことは、いずれそれなりに必ず報いられるということ、これは言い換えれば、神は人間に無限の可能性をお与え下さった、ということです。
欲望が大きければ大きいほど、その可能性の奥行きは広く深くなるということです。

自分の行為次第で、どんなにでも現れてくる。例えば、人間が本当の自然法則を知らされたとしても、それをとるかとらないか、選ぶか捨てるかは全く本人の自由である。
その自由を人間はある時期にかちとってしまった。失楽園ですね。
そのために悩んで苦しんで、法則に従えばラクラク生きていけるものを、やたらに反発するからバチがあたる。

私はこれもしょうがないことだと思う。この世は“報い”の世界なんだからー。ただ、どっちを選ぶということで、その選択の仕方で“報い”が変わる、ということだけは知っておく必要があると想いますけどね。

—この“救い”と“報い”を端的に言うなら、“救い”は絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何者もくつがえすことのできない久遠の真理である。
“報い”は現世における歩み方の努力に対する相対的評価である、と言えるでしょうか。

いずれにしても、この“救い”と“報い”に対するはっきりとした自覚は、自分を如何に解放してくれたことか。
あれほど神経質で潔癖であった私が、あの時以来、俄然のん気になり、すっかりルーズになった。

何やったって大丈夫だ、俺がその報いをうければいいんだからー女郎買いやら道楽やらを平気でやれるようになったのも、実はこの時からなんです。それがまあ、女房を苦しめたなんていうことになりゃ、何ともシマらない話だけどもね。

<20数年前にこの一節を読んだ時、あまり理解出来ていなかったように思います。
しかし、今になってある程度はわかってきました。現世にいきている以上、「自分のやったことは、いずれそれなりに必ず報いられるということ、これは言い換えれば、神は人間に無限の可能性をお与え下さった、ということです。
欲望が大きければ大きいほど、その可能性の奥行きは広く深くなるということです。」
を心に抱き、大きくはばたきたいものです。>

今日は、ここまで、それではごきげんよう!

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